「ネタ」は足が速い
昨今のCGMコンテンツの概観記事に以下のような記述が。
いかに高品質でも「独自すぎる」、「突き抜けすぎたコンテンツ」は、一時的に評価されてもマクロにはノイズで終わる可能性が高そう。
どうもネットで当たるか否かには不文律として、「如何に過去のコンテンツの文脈を継承しつつ、新しい文脈を提示てきるか?」というのが重要な要素なんじゃないかと。
この「文脈の継承」という要素のないコンテンツはいかに高品質でも短時間に死ぬ印象。
fladdict.net blog: CGMコンテンツメモ 突き抜けすぎちゃあいけない
これは納得できるなぁ。結局、過去から引継ぎ、未来に送ることで文脈が作られていくわけで、それが積み重なって文化になるんだと思う。そうした文脈を超えて注目されるとしたら、それこそネタとしての扱いなんだろうね。
ということで、最近のネタ/萌えの話。どうしてもネタと萌えがクロスオーバーした時期があったというだけにしか思えないのよね。萌えをネタとして楽しめるネタ層と、萌えを萌えとして楽しんでいる萌え層が1つ一緒に楽しめた時期があったってことかなと。といっても、そこには萌え属性を持つネタ層と、ネタ属性を持つ萌え層がいるわけだから、まぁ悲観的になることでもないんじゃない(萌え層、ネタ層なんて明確に分かれてるわけじゃないけどね)?
たまにこう、クロスオーバーするたびに超新星爆発みたいな状態になって、それが収まるとブラックホールができると。物理的にはありえないんだろうけど、その後なんかのきっかけで再び爆発が起こる、そんな感じの繰り返しじゃないかな。
どっちにしても「ネタ」は鮮度が大事なわけで、そのサイクルを繰り返すには次々に「ネタ」を投入していかないといけない。一度体験した「ネタ」の刺激は経験者の感覚を鈍感なものにしてしまうので、更に刺激的なものにしないといけない。ただ、やっぱりその辺には限界があるのよね。特にインターネットなんて、ネタ同士の競争が激しいし、そのサイクルがとてつもなく速いわけでさ。
そう考えると「萌え文化よさようなら」ってのは萌えをネタとして楽しんできた層か、ネタ層がブーストした萌えを見て、それが萌え文化のサイズだと勘違いしてた萌え層か、どっちかなのかなと。
まぁ、ただネタってのが何なのかってのが難しいところだけどね。上記の筆者は「モテ」と「話のタネ」と「自分アピールツール」という感じで捉えているけど、なんで「ネタ」がそのためのツールになるのか、ってところはぼんやりしちゃうし。「おもしろいからそれを媒介してコミュニケートしたいのか」「コミュニケートしたいからそれを媒介するおもしろさを求めるのか」なんとも切り分けて考えるのが難しそうな話になってくるわね。
なんやかんや言ってもネタになったおかげでコア層を増やすこともあるわけで、その繰り返しで文脈を紡ぎ続けるってのが大切なんじゃないかなと思うよ。
あ、大事なことが抜けてた。個人的にはオタ的なネタと、萌えはどうやってもマクロレベルではノイズになっちゃうんじゃないかなと思う。二次だのオタテイストはコア層がメインだからこそ、ネタとして成り立っているわけでね。ただ、そうした層の活発なアクティビティってのは、インターネット上のフロンティアを開拓することに繋がったりする。それが結果的にはマクロでも通用するモノが入り込む余地を与えるんだと思うよ。