二次創作は模倣に過ぎないのか?:岡本太郎が突きつけた挑戦状

先ほどの、OpenPostのエントリの最後に記すつもりだったのだけれども、書いているうちにエキサイトし、大幅に脱線してたので、別エントリとしてあげることにする。

芸術は、つねに新しく創造されなければならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム近代主義)です。
今日の芸術―時代を創造するものは誰か - 岡本太郎

私はこの言葉が好きだ。私と岡本太郎が見ているところは異なるのかも知れないが、私はこの言葉をもって岡本太郎が模倣そのものを否定しているとは思わない。岡本太郎が言いたかったことは、模倣が模倣のままに終わってしまうことを否定しているのだと。
岡本太郎はこの著の2年後、「日本の伝統」の中で、過去の「伝統」にすがり現在を否定する、そういった伝統と考えられているものは本当は伝統ではないという。創造すること、それこそが伝統なのだと論じている。
私は、いわゆる「伝統」を否定するつもりはない。しかし、創造性を伴わない「伝統」はどこまでいっても「過去」であり、それは決して「今日」を束縛するものでも、支配するものでもない。「過去」を「過去」として残すのであれば、「今日」は「今日」として成り立たなければならない。「今日」との対比があってこそ「過去」が評価されうるのだ。「過去」が「今日」を否定するのであれば、「過去」はそのよりどころを失う*1。それこそ「過去」にとっても「今日」にとっても不幸なことだ。
だからこそ、単なる模倣は簡単に否定されてしまう。模倣は「過去」が「今日」に生きる人々から、価値を見出されているからこそ成り立つ。しかし、「今日」の人々がその「過去」の価値を評価できなくなったとき、模倣もまた価値を失う。
私は模倣そのものを否定するつもりはない。しかし、模倣という手法に立脚していたとしても、そこに「今日」を生きる創作者達の創造性が、エネルギーが詰め込まれていなければ、「今日」において輝くことはないのだろう。
「過去」を踏襲してもいい、「過去」に反発してもいい、ただ「今日」においてそれが光り輝くためには、そこに創作者の「今日」の創造性が、エネルギーが詰め込まれていなければならない。そして、それが輝くことこそが、「過去」を照らすのだとも思う。
随分抽象的な話になってしまったのだけれど、なぜこういうことを考えたかというと、私は二次創作は模倣ではないと思っているためだ。ここまで読んできて、え?と思われるかもしれない。
私個人の意見としてなのだけれども、創造物を作り上げるのに、それに必要なマテリアルなどなんだってよいのだ。キャンバスと絵の具でもいい、紙と鉛筆でもいい、PCとペンタブでも、ビルの壁面とライトでも、木材とノミでも、粘土でも、鉄の塊でも、そして過去の創造物のアイディアやそれそのものであっても、それを可能な限り自由に使えばいい。重要なのは、何を使ったかではなく、何を表現したかだ。何を使ったところで、その受け手はその表現を「感じる」ことしかできない。「今日の受け手」は「今日の創作者」の創造性を、エネルギーを感じ取るのだ。
もちろん、この話は著作権を無視していいとか、そういう類の話じゃない。単純に、二次創作は模倣だというキメツケに対して、そうじゃないんだ、ということを言いたいのだ。DJ Danger Mouseの「Grey Album」はさまざまな論争を引きおこした。しかし、それは著作権法上の問題でしかなかったと思う。それが創造的であったのか、と問われれば私はそうだったと思うし、そのエネルギーも感じた。
ただ、全ての二次創作物が模倣ではない、というわけでもない。「過去」に頼ってオリジナルをなぞるだけでは、受け手にとって「今日」の創作者のエネルギーや創造性を感じることはできないだろう。もちろん、創作者は創造性もエネルギーも詰め込んだんだと思うかもしれない。そこには価値観の違いもあるだろうが、ただ、自分自身が創造性、エネルギーを詰め込んだ(費やした、ではない)を思っていても、それが伝わらなければ、受け手にとって表現として成り立たないのかもしれない。
そういった意味では、二次創作は「挑戦」でもあるのだと思う。その挑戦に打ち勝ったと感じられるものであれば、例えオリジナルの著作物が存在する二次創作であっても、私はそれが立派な創作物であると感じるのだろう。
逆に、オリジナルの著作物だといっても、それが単に「過去」をなぞるものであれば、例えそれが技巧的に洗練され、テクニカルなものであっても、受け手はそこから創造性もエネルギーも感じることはない。そこにあるのは「過去」の残光でしかない。
書評というわけじゃないんだけど、やはりこうした考えにいたるのも、岡本太郎の「今日の芸術」「日本の伝統」に衝撃を受けた部分もあるのだろう。この2冊は岡本太郎が記して、もはや半世紀がたつ。たとえ、彼の言葉に胸を打たれたとしても、反発を感じたとしても、彼の言葉は人の心を揺さぶるものだと感じる。まさに岡本太郎の言葉だと思う。岡本太郎の語った「今日」は、50年前当時の今日だけを語ったものではない。それは今なお連綿と続く「今日」として語られたものだろう。
この本は、創作に関わる人すべて、創作を試みる人、そしてその創作を楽しむ人全てに読んでいただきたい。これは岡本太郎が50年前以上もから、創作に、そして日本に対して突きつけてきた挑戦状である。

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)

*1:私は昔の時代を生きたことがないのでわからないが、少なくとも「今日」は「過去」の価値が「そのまま」維持できる時代にはないと思っている