ファイル「共有」?ファイル「窃盗」?:メタファーが議論を変える

Los Angeles Timesに興味深い記事がポストされている。議論はファイル共有についてなのだけれども、通常の議論とは異なる視点で問題を概観しているところが興味深い。ここでのトピックは、ファイル共有支持層が叫ぶファイル「共有」という言葉、コンテンツ産業が批判の際に叫ぶファイル「窃盗」という言葉の持つイメージや意味。

The first salvo was fired by the original Napster, which defined itself as a file-sharing network. That won the semantic high ground by defining unauthorized downloading as "sharing," not "copying" or "duplicating." The implication was that users of these networks were merely being generous with something they possessed, not usurping the rights of copyright holders.

File ‘sharing’ or ‘stealing’? - Los Angeles Times

面白い視点。確かにある意味では、Napsterのネットワークがファイル「共有」ネットワークとされたことで、そこで行われている行為自体の意味的な優位性が担保されてしまったのかもしれない。それに対してコンテンツ産業

Record labels, music publishers and movie studios contend that copyrights are indeed property, entitled to the same protection as a home or a car. To counter the notion of "sharing," they've advanced an equal powerful metaphor: downloading as theft.

窃盗というメタファーを持ち出してきた、と。ただ、ご存知のようにこうしたメタファーが混乱や誤解を招いてきたというところもある。たとえば、スタンフォード大学ロースクールの著作権を専門としているMark Lemleyのように、フィジカルな財産と知財とは異なるものであり、安易にメタファーを用いたことは、逆効果だったのではないか、と指摘する声もある。

"Let me be clear: copyright infringement is wrong, and should be punished," he wrote in a recent e-mail. "But simplistic statements that infringement is 'just like' stealing a CD, or using a room in my house, are wrong. They are also counterproductive, because people instinctively know they are wrong, and so they are likely to ignore histrionics of this sort."

私もそう思うところがある。確かに侵害行為自体は改善すべきものであるし、共有という聞こえのよい言葉を用いても弁解し得ないものである。ただ、それはそれとして、違法ファイル共有ユーザを変えようとするキャンペーンなのに、相手にレッテルを貼ってしまうことで、態度を硬化させることになっては何の意味もないのでは?と思ってしまう*1
筆者は、では正しいメタファーとはなんだろうか?という疑問を持っている。筆者自身この疑問には答えを出せてはいないようだけれども、それでも無許可のダウンロードは窃盗罪にはあたらないかもしれないが、広義の窃盗には当たるのではないか、と考えているようだ。たとえコピーされることで、コピー元のファイルが消失しないとしても、データには価値があり、その対価を得るべき人々に支払われてはいないのではないか、と。
確かに著作権者から作品を「奪ってはいない」という主張がなされているものの、何も「奪うこと」だけが窃盗の必須要素ではないという。隣家からCATVのケーブルを引き込み、タダで視聴するという行為を例に挙げ、この行為によって誰かのものを奪うことはないが、対価を支払うべきサービスを無許諾で、対価を支払わずして享受している「サービスの窃盗」ともいえる行為ではないか、としている。
その一方で、より重要なこととして、こうした窃盗、万引きのメタファーを用いることで、知的財産権を物的財産と同様に尊重させることを望んでのものではないかともいう。これによって、ファイル共有の正しさ以上の議論を巻き起こしているのではないかと。こうしたものへの侵害というイメージによって、著作権保護期間の問題や、海賊行為を抑制することに誰が責任を持つのか、といった議論にも影響を及ぼしている、と。そして、物的財産と混同させるメタファーを用いることによって、著作権を不変なものと認識させることで、議論のバランスを傾けることになるのではないか、という疑問も呈している。
なかなか興味深い議論だなぁと思う。言葉・メタファーの持つイメージや意味合いが、そこで行われている行為の印象や議論の方向性を変えてしまう、という問題も現実としてあるだろう。私が「たとえ」を使うことをあまり好まないのもそういう理由だ。あくまでも「たとえ」はたとえとしての制約があり、その範囲内で理解を容易にするためにこそ利用されるべきであろう。
以前、Winnyの開発者が逮捕されたときによく耳にした議論として、「包丁は確かに危険なものだが、合法的な存在だ。お店でも普通に売っているだろう。結局は使う人の問題だ。同様にツール自体に問題があるわけではない、ツールの作成を罪に問うことはおかしい。」という、いわゆる包丁のメタファーがある。これはメタファーとしては致命的な欠陥があると思うのだけれども、意外にすんなり信じちゃう人がいたりする。思うに、ここで本来持ち出すべきは「刃物」なんじゃないかな。刃物はその存在が危険だからこそ、銃刀法があって、包丁になるのか*2、刀剣類になるのか、それぞれの区分での所持や販売に関する制限が決められている*3
問題は、議論の中で言葉を定義したり、メタファーを持ち出したりすることで、より自らに都合のよい方向に誘導することもできるということ*4。しかも、誤ったメタファーを用いた議論に引きずり込むことで、その優位性を確保することもできる。上述の「刃物」のメタファーだって、私自身、アプリケーションの開発は別としても、配布に対しては何らかの責任が必要なのではないか、という議論があるべきだと思っているからしっくり来るところがあるだけで、メタファーとしては適切なものではないのかもしれない。「それらしく」聞こえるだけで。
もちろん、適切なメタファーを用いることで理解が促進されるという効果も否定することはできないのだけれど、一方で、誤った「それらしい」メタファーを用いることによる誤解が生じてしまうこと、誤っているかどうかの判断が自らのスタンスによってバイアスがかってしまうであろうことを考えると、メタファーの使用には慎重になるべきなのかもしれない。
といっても、私自身ついついメタファーを用いてしまうのだけれどもね、反省反省。

議論のルールブック (新潮新書)

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*1:非難したいなら、それでもよいのだろうが。

*2:この区分が正しいかどうかはわからないけど

*3:所持に関しては、軽犯罪法もあるのかな

*4:しかし、それは不毛な議論であることも多い。メタファーが持つ制約に縛られた議論になってしまったり、ね。