変化とノスタルジー
1曲しかなければその1曲を大事にくり返し聴く。
10曲しかなければその10曲を大事にくり返し聴く。だけど1000曲が小さなボディにまるっと収納されて、
いつでもどこでも気軽に聴けるとなったら、
もうどの1曲もたいして大事じゃなくなる。たいして大事じゃない1曲は、
それが1000個あってもたいして幸せじゃない。大人になった時にそのことに気づいた。
CDや本が売れなくなってきた件 - 谷山浩子がどこかこのへんに…
谷山浩子さんのブログより。なんか、わかるなぁと思って。
高校生のころなんて、毎月のようにどのレコードを、どのCDを買うか悩んでた。悩んで悩んで悩み抜いて、これだ!ってのを買って、何十回も何百回も繰り返し聴いてた。
それからだいぶ経って、ある程度好きなようにレコードとかCDとか買えるようになった。5枚10枚と一気に買ったりもした。でも、なんか違う。
音楽とか芸術とか、ずっと既製品のように思えてたけど、これって自分で組み立ててんだなぁって思った。スピーカーとかヘッドフォンが鳴ってんじゃなくて、自分の頭で鳴ってんだ、鳴らしてんだって。
いくら5枚10枚買ったからって、嫌なものを買うわけがないんだ。好きだから買う。でも、その良さを味わうためには十分な時間と渇望とが必要だったことにハタと気づいた。気づかされた。
よい曲を探すために音楽を聞いてるんじゃない。よい音楽を味わうために曲を聴いてんだ。よい曲なんてそりゃあもう山ほどある。聴ききれるものじゃないくらいに。望まぬ制限ではあったけど、あの頃はそれが防波堤になって、津波にのみ込まれずにいられた。知らぬが仏ならぬ、聴けぬが仏。
でも、その防波堤がなくなるとしたら、すてきな曲を、だれが聴かずにいられる?その代わり失ったのは「大事な」曲。よい曲、すてきな曲、でも、全部は大事な曲にはできなかった。欲張りだったんだなぁって思った。欲張りなのは治そうにも治せないけどさ。
目を凝らして先を見ようとするほど、過去の輪郭がいっそうはっきりと浮かんで見える。それが変化を感じるということなのかもしれない。変化を受け入れているからこそ、感傷やノスタルジーが生まれる。
そりゃ、ノスタルジーも生まれるよ。変化にはいろんな側面があって、望ましいこともあればそうじゃないものもある。全てがハッピーなんてことにはなかなかなってくれない。
今やこれからに幻滅してるわけじゃない。むしろウェルカム、ワクワクしてるくらい。ただ、その過程で失われていたものが、自分にとって大切な体験だったりしたら、ちょっと感傷的になっちゃう。
願わくば、今起こっている変化もノスタルジーを生むようなものであれば、それくらい大切な体験を生み出すものであればいいな。
追記
谷山浩子さんが勘違いされてるのは、正直残念だなぁって思う。
わたしは基本的に「アマチュアなのにプロみたいにスゴイ(うまい)」ということにはあんまり意味がないと思ってます。作者がアマでもプロでも作品は作品です。それより、仮に作者がプロだとしても…プロの作品集に入っていたとしても、これは特別だ! ヘンテコだ! こんなの見たことない! 何回も見たくなる! むしろプロじゃできないでしょうこれは! そう思える作品が好きです。そういう作品は、狙ってる人にはできないものです。とにかく作りたくて仕方なくて作ってしまった、やむにやまれず作ってしまった、楽しくてやめるにやめられない、わたしってこれ作るために生まれてきたのかも、そういう人の脳内にこそ創作の神は降臨するのだと思います。ニコニコ動画が、そんな創作者たちの遊び場&発表の場として、栄えていきますように。
谷山浩子プライベートページ:過去の扉 2008
あと、「なっとく森の歌」でググると幸せになれますよ。