他の国がどうとか今の著作権法とかは関係ねぇ、MADは認められるべきだ

ニコニコ動画がMADに対するスタンスを明確にしたとかなんとか。現行の著作権法では認められていない部分であるのだから、著作権者が権利を行使して削除を求めるということ自体には何ら問題はない。
これを持って「権利者は我々の敵だ!」「これでユーザを敵に回したな」と考える人が出てくるのもわからんでもないのだけれど、権利者自身が素材としての利用を認めてるわけはないわけで*1、その利用を事後的に公に認めるも、黙認するも、対応を留保するも、削除を求めるも著作権者の考え次第。少なくとも制度はその行為を是認している。
こうした議論の中で、「権利者はMADを認めるべきだ」「MADにはそれを知るきっかけとしての意義があるのに」という意見や、「違法なことなのだからしょうがない」といった意見が散見される。確かにそう思うところもあるのだが*2、少なくともこういった主張は、現行制度における著作権のコントローラビリティの問題である。
だから私は言いたい、これは権利者云々の問題ではない、と。これは著作権そのものの問題であると。

切り張りは創作となりうるか

私の心情的には、たとえすべての素材を他者の創作物から抜き取ったものだとしても、MADであれ、マッシュアップであれ、それは創作となりうると考える*3。その組み合わせが、オリジナルにない創造的な価値を生み出すものであれば、私はそれを創作として許容する。
"切り張り"は創作にあらず」という人もいるだろう。しかし、私はそうは思わない。突き詰めて考えれば、そうした人たちが創作と呼ぶものですら、切り張りでしかない。任意の音を、文字を、ドットを、インクを、絵具を、光を、影を、石を、鉄を、そうしたものを紡ぎ、意味を持たせたもの、それが表現であり創作である。紡がれる前の状態には、それぞれの意味しか持ち得ないものに、新たな意味を持たせること、それが創作だと考えている。決して、お前たちの考えている創作だって切り張りじゃないか、などと揶揄したいのではない。私が強く主張したいのは、たとえどのようなマテリアルを用いたとしても、その紡ぎ方こそが、意味を、価値を創出するものだということである。したがって、創作という行為は決して上記であげたような、最小単位だと思えるような物で構成されたものだけではなく、この世に存在する如何なるものをも用いてよいのだと考えている。もちろん、それが新たな価値を創造し続ける限りは。

私が考える「著作権かくあるべき」

私は、著作権という概念は、創作のためにこそあるべきだと考えている。したがって、著作権の存在が創作を阻害する、抑制するという状況は本末転倒であると考えている。
MADやマッシュアップについての考えをすすめる前に、私が考える「著作権がどうあるべきか」というお話をしておきたい。これはあくまでも現行の著作権法云々の話ではなく、私自身、なぜ著作権という概念が必要であるのか、ということを反芻した結果としての考えということをお断りしておく。
著作権によって創作者の利益が保護される、私にとってそれは目的ではなく、単なる手段でしかない。そして、その目的とするところは、社会、つまり我々が創作*4を享受し、それによって豊かな文化を醸成することにある。
近現代の創作物は複製技術によって、同等、同質のものを作り出すことが可能とし、そのことが我々に創作を届けてくれることには非常に役立つものであった。しかし、そうした技術は誰しもに複製を可能にすることになり、創作者の得られる金銭的利益が損なわれることにも繋がる。創作活動は必ずしも金銭的利益のために行われているわけではないのだろうが、しかし、金銭的利益が生じることは創作をサポートし*5、そして創作を流通させるインセンティブとなる。そうした状況は、我々が創作を享受する環境としては非常に望ましい。我々が創作されたものを知り、そしてそれが我々の手に届くところにおかれる、そうした環境こそが、我々の求めるところである。それゆえに社会、つまり総体としての我々は、著作権なる概念を作り出し、創作を複製する独占的な権利を与える。それは我々に、著作権という概念の存在しなかったことにはなかったコストを要求する。しかし、我々がそのコストを支払うことによって、我々は創作を享受することができるのだ。
つまり、私にとっての著作権とは、「自分の創作したものが守られる」という手段を用いて、「誰かの創作したものを享受する」ことを目的とした、我々のための権利だ、ということになる。それゆえに、私は著作権の概念そのものを支持し、守られるべきだと考える。ただ、それは我々が「多様で、豊かな創作」を享受するためにこそあるべきで、手段が目的を阻害するほどにまで特権的であるべきではない、とも考えている。著作権など社会的なツールにすぎない。
これが私の考える著作権はこうあるべきだという理念。もちろん、それが現実に受け入れられるものかどうかは別であろうが、しかし、私は日本国民であり、日本における著作権法を如何にすべきかということを間接的にではあるが決定する1人でもある。現実は理念を実現する際の制限となるが、理念そのものを制限するものではない。

二次的な利用とオリジナルの利益と

私にとって、著作権が存在すべき理由は、創作をサポートするためであり、その手段として経済的利益をもたらすようなシステムを作り上げる、といえる。したがって、そのようなシステムに矛盾をきたさない範囲であれば、私は新たな創作のために創作物を自由に利用してよいと考える。
しかし、これまで述べてきたようなことを同時に実現しようとすると様々な問題が生じるだろう。
創作の名の下に、他者の創作物を自由に利用できる、そうした状況が利用されるオリジナルの創作者に過度に経済的な不利益を、直接的に与えることは望ましくはない。これは創作である、ということを盾に、ほぼデッドコピーに近いものを利用し、それによって利益をあげようとする輩も出てくるかもしれない。しかし、自らの経済的な利益のために、他者の創作物にただ乗りしようとする行為は、認められるべきではない*6。あくまでも、著作権で保護されている創作物を利用する場合に、営利目的ではない利用に限定されるべきだろう。
つまり、創作だけのためであれば認められるべきだ、と考える。その一方で、いかなる理由であっても営利を目的とするのであれば、その利用には使用料の支払いを含めた権利者による許諾が必要であると考える*7
もちろん、こうした状況が実現したとしても、その問題は営利目的のときにのみ生じるものではなく*8、非営利であっても、創作にかこつけた、ほぼデッドコピーというもの出てくるだろう。悪意を持っての行為かもしれないし、ナイーブ過ぎるがゆえの行為かもしれない。ただ、そうしたものに対してまで、著作権を制限し利用を許せ、などというつもりはない。*9
また、権利者側から、経済的不利益を被ったというクレームがつくこともあるだろう。実際に直接的な不利益を被ったというかもしれないし、間接的な不利益、つまりMADやマッシュアップによって制作されたコンテンツとの競合によって不利益を被ったと主張するかもしれない。もしくは、後者の問題を前者の問題にすり替えるかもしれない。あくまでもその立場によって、主張にはバイアスがかけられることになる。権利者側は損害を過度に誇張するだろうし、オリジナルの創作物を二次的に利用をする側はそういった損害を過小評価するだろう。おそらく、問題が生じたとしても、その主張は平行線をたどることになる。その場合には、調停、つまり裁判による判断が必要となるだろう。MADやマッシュアップの創作としての価値、オリジナルのコンテンツの利用の必然性、現実に損害が生じているかどうか、そういったことが精査され、ケースバイケースでの中立な判断が下されることになるだろう*10。少なくとも、創作という大義名分があれば、いかなる利用でも許されるというのも望ましくはない。

もっと現実的に考えると

さらに、こうしたオリジナルに手を加えた創作に関わる問題は、財産権だけではなく、現行法における著作人格権にも関わる。MAD、マッシュアップが氏名表示*11、同一性保持、名誉声望保持などを侵害する可能性もある。他にも肖像権やパブリシティー権ともぶつかるかもしれない。私としては、そうした権利を認めつつも、一定の制限を受けてる部分があってよいと思っている*12。もちろん、それをどう調整していくのか、ということは考えなければならないだろう。少なくとも、両者が共に過度な不利益を被らない形に収束させなければならない。
また、著作権の問題は日本だけで好き勝手できるような問題ではなく、日本が結んでいる国際条約・協定等にも束縛されるのも事実である。もちろん、日本がそうした条約を破棄すれば良いというソリューションもあるが、そうなれば、著作権を超えてさまざまな問題を引き起こすことになる。ただ、そうした制約があったとしても、そうした制約があった上での「著作権かくあるべき」という理念を持つのではなく、理念を持った上で、それを現実に合わせていくべきなのだと思う。

今回のお話は…

あくまでも私が考える理念の部分をほんの少しだけ、現実に合わせて考えてみた、というものだろう。最後にあげた人格権の問題や、国際条約による縛り、もっと言えば、それらをクリアしたところで、政治にアピールし実際に変えていけるのか、といった問題はあるだろう。
しかし、こうした問題は、あくまでも私の理念を実現する際の制限やハードルであって、その理念そのものを制限するものではない。私はどのような理念を持ってもいいと思っている。他の人から見たら、嘲笑されそうな理念であったとしても、考えに考え抜いた末の結論であるのなら、それを堂々と主張したっていい。不正な手段によって、それを実現しよう/したのでなければ、批判されこそすれ、非難されるいわれはないのだから。

おわりに…

この話の中に詰め込みたかったのだが、どうしても入れられなかった話をいくつかして、このお話を終わりたい。

MAD、マッシュアップはお手軽文化か

MADやマッシュアップは、確かに既存の創作物を利用することで、一からすべてを作り上げる必要がない、ある意味ではフリーライドのような部分が存在するかもしれない。何から何までフリーライドできるのであれば、オリジナルとなる創作に負の影響を与えてしまうかもしれない。そのようなことになれば、オリジナルにとっても、MAD・マッシュアップにとっても不幸なことだと思える。だからこそ、何から何まで認められるべきだとは思わないのだが、しかし過度に負の影響を与えそうにない部分に関しては、一定の範囲での利用が認められてもよいと思うのだ。教育や研究、報道などに対して制限されているものが、なぜ創作においては制限されないのか。「"切り張り"は創作にあらず」というが、その切り張りによって新たな文脈、新たな意味、そして新たな価値が創出されうると私は感じている。確かにオリジナルを元に切り張りするのだから、一から作るよりは容易かもしれない。それゆえに、お手軽で、簡単にできると思っている人もいるかもしれない。おそらく、それはただ並べているだけのものを思い浮かべているのだろうと私は思う。しかし、その"切り張り"はMAD、マッシュアップ制作者のセンスの下になされるものであり、それによって新たな価値が生まれるのである。もちろん、お手軽ゆえに、誰にでもでき、それほど価値の見出せないようなものも数多く生まれるかもしれない。しかし、そうした人たちであっても、その創作の喜びの下でセンスを磨き、より価値あるものを創り上げるようになるかもしれない。確かに手段はオリジナルを作り上げるのに比べるとお手軽に見えるかもしれない。しかし、創りだされる価値までお手軽だということにはならない。

目的によって手段は正当化されない

私は、ある一定の条件の下では、既存の創作物を材料にして、新たな創作を行うことを良しとしている。しかしだからといって、現行の著作権法の下では認められてはいない行為を行うことを良しとはしない。もちろん、それが可能となる社会を願ってはいるが、今のところは認められてはいないのである。
だから、そうした状況への変化を願い、尽力しつつ、創作においては現状で許されている範囲で行われるべきだと思う。たとえば、Creative Commonsのようなライセンスを利用して、自らのコンテンツを、楽曲を利用してくれと願う人たちのものをこそ、利用する。それは現在の制度においても、認められている範囲のものである。

MAD、マッシュアップはオリジナルに利益をもたらすか

私がここで主に語ってきたことは、MADやマッシュアップがオリジナルに「損害をもたらさない」範囲で認められるべきだ、ということであった。決して、オリジナルに直接的な利益を生み出すから、認められるべきだ、という主張ではない。そうした利益がなくとも、社会が創作を得るために、必要だ、と。ただ、実際に、MADやマッシュアップがオリジナルに「利益をもたらす」、という主張もある。もちろん、そうした効果が本当にあるのかどうかは、肯定するにせよ否定するにせよ、現段階では推測の域を出るものではないが、そうした効果があるのであれば、望ましいことだと思う。ただ、それは決して目的としてではなく、MADやマッシュアップの創作に随伴して起こるものとして、であるが。

*1:角川だって現状では使ってもいいですよ、という事前承認のスタンスというよりは、これくらいの利用であれば許諾してもいいですよ、という事後承諾のスタンスをとっているようにも思えるし。スターウォーズなんかは権利者が素材を提供し、事前に利用を許諾しているけど。まぁ、それもサイト内での利用に限定されているけどね。

*2:何度も言うように、こうした話を単純化するつもりはない。実際にそうした効果があるのだとしても、限定的、偶発的な状況において起こりうるものであり、過度に一般化することはできないし、それを持って行為を正当化することも難しいと考える。

*3:もちろん、そうと認められないものもあるだろうが。

*4:創作といっても、単純に『クリエイティブ』と感じられるようなものばかりではない。たとえば、ニュース番組や新聞などの報道のアウトプットも含まれている。もちろん、「事実」は著作権で保護されてはいないが、そのアウトプット、つまり「表現」は著作権によって保護されている。

*5:ともすればインセンティブとなり

*6:少なくとも、経済的なインセンティブが人々を動かすにはあまりにも強力であることを考えると。

*7:もちろん、ここにも権利者による明示的な許諾を得られるかどうかという障壁が存在しているが、それはここでは言及しない。

*8:ただ、経済的なインセンティブがそうした問題を大規模に引き起こすのに十分なほどに強力であると考えられるということ。

*9:余談ではあるが、個人的な印象としては、現状では、デッドコピーを含めても、権利者サイドが主張するほどには損害は生じてはいないと考えているが(もちろん、だからといってそういった行為を正当化するつもりもない、私はそうした行為そのものは否定している。)、将来的な問題には大きな問題を抱えていると感じている。

*10:もちろん、理想的には。

*11:氏名を表示すればいいという問題ではない氏名を表示するな、という人も存在するだろう。

*12:こうした権利に制限がなければ、いかなる利用/使用であっても、著作者本人によるコントロールが可能となるほどに強力なものとなりかねない。