ネットで簡単に答えがわかるから子供の学習意欲が低下する?そんな馬鹿な

テリー伊藤さんが「インターネットは1日1時間に制限すべきだ」とテレビの番組で主張した。ネットを長時間すると、「引き篭もり」になり、「想像力」が無くなって、結局は「バカ」になる、からだそうだ。

J-CASTニュース : 「ネットで頭がバカになる!」 テリー伊藤の主張を「否決」

面白い問題提起ではあるんだけど、あまり根拠がない話だよなぁと思ったりもする。どちらが原因でどちらが結果であるのかは明確には述べられないし、そもそもどちらも結果でしかなくて、原因は別のところに・・・ということも考えられる。
それはともかくとして、とても気になったのがここ。

番組に出演した中学教師の金子毅さんは、テリーさんの意見に同調し、
「ネットがあることで、子供の学ぶ意欲が低下している」
と話した。ネットで検索すればすぐにわかるため、「いちいち学んでもしょうがない」と考える子供が増えているのだという。

これって、ネット云々の問題じゃなくて、「答えさえわかればいい」と子供が考えてしまう教育の問題じゃないかと思うんだけど・・・。
私自身、何かを調べるときにはネットを基点とすることが多いのだけれど、ネットで簡単に調べられることには限度があるし、より詳細に調べるためには、より多くの知識を必要とする。調べれば調べるほど、新たな疑問は沸いてくるし、そういった疑問を解消するためにはまた調べる必要が出てくる。ネット上の情報は断片的なものも多く、そうした情報をつき合わせて考える必要もある。そこに矛盾があれば更に調べて・・・ということを繰り返している。
逆に言えば、その分野の本を読んでいたほうが簡単に答えがわかったかもしれない。でも、簡単に答えが得られなかったからこそ、そのプロセスで多くのものを得ているとも思うんだよね。情報が断片的に分散してある、というのは効率を悪くするものという部分もあるけど、その過程でいろんなことを考えるきっかけともなる。私の場合は特に、いろんな人の意見や態度を知ることができるのが、収穫だったりする。
結局、重要なのは「その答えがなぜ必要なのか」じゃないのかしらね。「簡単に得られる答え」を求めるだけであれば、なんであろうと学習意欲は失われる。だけど、ほとんどの場合、その場で「答え」を得ることにはほとんど意味はない。たとえ、「正確な答え」が求められる定期試験のため、高校入試のため、大学入試のための勉強であったとしても、それら中長期的な目標のために、短期的な目標として「答えを出す」よう求められるってだけで。そして、そのような短期的な目標として「答え」を求められるのは。「答えを出す」ことが重要なのではなく、その「プロセス」を学ぶことに中長期的な意味がある。定期試験であれ、高校、大学受験であれ、試験中に「ネットで簡単に答えを調べる」ことができないということは誰しもが知っていることなのだから。
結局のところ、目標設定が「短期的な」問題解決にしかないのであれば、ネットは勉強しなくても済む素敵なツールだろう。しかし、目標設定が「中長期的な」問題解決、つまり試験でよい成績を取るとか、高校、大学に入学するいうところにあれば、短期的な問題解決のためにネットで簡単に答えを調べることができたとしても、中長期的な問題解決の役に立たないことは十分理解するだろう。
また、目標設定が「知的欲求の充足」にあるのだとしたら、1つの答えを簡単に探せるということは、次の答えを求める足がかりにもなる。知的好奇心の充足には際限がない。
子供がどのような目標設定をし、その問題解決のためにどのような行動をとるのか、ここを目を向けなければ、ネットをスケープゴートにし、子供たちから引き剥がしたところで、次のスケープゴート探しが始まるだけだろう。もちろん、もはや子供たちをネットから引き剥がすことはまず不可能だということを考えると、延々とネットを批判し続けるだけになりそうではあるが。