状況を読む能力は重要だよね

私は「KY」とかいう言葉が大嫌いなのだけれど、その理由としてはここで言われているようなことがあるから。たとえば、自分の不都合な言及だったり、自分の意に介さない発言に対して「空気読めないな」なんて言う人がたまにいて、そりゃ空気とかいう問題じゃないだろ、とか、「自らの」失敗なり判断ミスなりを「回避できたにもかかわらず」「空気」のせいにしてその責任を回避しようとする、とか。
ただ、こうした議論で違和感を覚えるところとしては、「空気」という言葉。「空気を読む」と言ってしまうことで、「状況を読む*1」ということまで含まれているのではないかと思える*2。「空気」には「状況」以外の意味が含まれているんだよ、と言う人がいるかもしれないけど、前者が後者を内包しているような言葉は少し混乱してしまう。私としては、「状況」を読む能力は、ヒトが社会的な生き物として発展するために、必要不可欠な要素だと考えているので、「状況」を軽視し、内的な属性にばかり注意が向くというのは好ましいことだとも思っていない。

社会的な生き物として

「社会的な場面において状況を読む」ということは、他者またはその総体が自分またはそこにいる人に、どのようにふるまってほしいと考えているか、ということを推測することだと考えている。その点では、ヒトが社会性を獲得した以上、状況を読む能力はヒトが社会的な生き物であるために必要不可欠なものであり、それを欠くことは社会的な生き物としての危機を意味するものだと思える。

状況(空気)に依存しすぎることがよくないの?

よくない、とはなかなか簡単には言えないかなぁ。他者・集団の期待の推測が、過度に誇張されて認識される、もしくはそれを言い訳に使うのは宜しくはないよなぁとは思うけど、かといってヒトが社会的な生き物である以上、他者/集団の影響を受けないということは絶対にありえないわけで*3、結局は短期的な状況と中長期的な社会的状況における複雑な利得構造のなかで、どの点に利益を見出すか*4、というところに依存しているのではないかと思える。
だから、私としては、ある種の利益を優先するために、どうしても抗することのできない状況というのは、確実に存在すると考えている*5。たとえ自らは疑問や違和感、懸念を抱いていても、それとは別の、そしてしばしばトレードオフの関係にある利益のために、その「状況」に従うことだってあるだろう。可能であればその疑問なり違和感を解消するよう努力すればいいのだけれども、それが不可避なケースもある。
「過剰に」とか「依存しすぎる」といっても、それがどういう状況で、という要素が入らなければ、判断は難しいよなぁと思う。ともすれば、人は他人*6の行動に関しては、状況を無視して内面に原因を求める傾向があるわけで。

ジョジョ、逆に考えるんだ

社会・集団の成員たる我々は、総体としてその場における状況を作り出す。主体的決定や責任の所在を回避するために状況を言い訳にする人は確かに存在するが、それを完全に否定しえない「状況」というものが存在する場合も少なくない。ただ、何かしら望ましい「状況」というものがあるのであれば、ヒトは総体としてそういう「状況」を作り出すことができる。
「主体的決定」を求め*7「責任回避」を認めない、そんな「空気」を作ってみてはいかがでしょうか。

*1:ここでは、社会的な場面において、他者/集団が自分/構成員にどのようにふるまうことを期待しているか、というところ

*2:ともすれば同義で

*3:というかそういう環境で生き残ってきた(進化してきた)わけで、そのための各種モジュールは組み込み済みだったりする

*4:もしくは、それぞれの利益/損失の組み合わせ

*5:もちろん、その状況を読み誤っているということもあるのだが

*6:遠ければ遠いほど

*7:認め