創作と表現:あなたの解釈は間違っているか?

押井守岡部いさく著の「戦争のリアル」にて『「風の谷のナウシカ」の軍国主義的映画』解釈がなされているよ、というエントリを見て、押井守らしいなぁと思いながらニヤニヤしていたわけですが、そのエントリの末文に違和感を覚えた。

というわけでナウシカを見て、反戦・平和主義、環境保護の映画だと思ったら大間違い。本当は太平洋戦争を賛美し、慰撫する軍国主義映画かも。

ナウシカに隠された宮崎駿の陰謀 (のまのしわざ)

確かに、表現は創作者の内心にある感情、思想を反映している。それは間違いない。しかし、それをどう受け取るか、という点に関しては、絶対に「間違い」など存在しないと思う。

表現の解釈に正解はあるのか

創作者が何を考えていたのか、何を伝えたかったのか、という点では、正解があるのかもしれないが*1、その作品が「私」に何を伝えたのか、という点では正解はありはしない。強いて言えば、そのときどきの「今ここ」にいる「私」が何を感じたかだけが唯一無二の正解だと考える。
もし、創作者がしたり顔で「あなたの解釈は間違っている、この表現はこれこれこういうことを意図しているんだよ」などと講釈を垂れたとしても、私は自らに生起した感情を否定することはできないし、創作者の意図を感じ取れなかったことを恥じることもないだろう*2
解釈に対する評価があってはならない、といいたいわけじゃない。他者の解釈に触れ*3、新たな視点で表現をとらえなおすということもあるだろう。ただ、それでもなお、他者の解釈どおりに感じられなければならないということはないし、ある種の解釈に沿った感じ方でなければ間違いだなどということはない。
こうしたヒトの表現に対する解釈へのコントローラビリティは、誰も持ち得るものではない。創作者であってもそうだし、その受け手本人であってもそうだろう。なぜそう解釈したのかという問いへの究極的な答えは、そう感じたからだ、というより他はない。もちろん、そこに至るまでのこまごました説明は可能ではあろうが、それは、なぜそう感じたのかを補足するだけのように思える。
表現に対する感情、評価、解釈というものは、「そのとき、そこ」にいる「その人」にとっての絶対的な真実であり、それが間違いだの正しいだのという類のものではないと考える。
これはおそらく、私の音楽に対するスタイルに由来する信念的なものがあるのだと思う。同じ曲を何十回、何百回と聴いているが、1度として同じ体験をしたことはない。具象、抽象な映像を思い描きながら聴いたり、全体を感じ取りながら聴いたり、一部に焦点を当てて聴いたり、私なりにその楽曲をアレンジしながら聴いたり*4するし、そしてそのときどきの感情や、それまでに聴いてきた音楽、聴いている場所、その時代時代の私の考えなどが反映されているだろう。たとえ、楽曲そのものはまったく同じものであっても、その時その時の「私」が毎回変化している。それゆえに、その楽曲は変化を続ける。
もちろん、これが唯一無二の考え方だとは思わない。ただ、表現に対する唯一無二の正しい解釈、感じ方というものは存在してはいないのだと強くいいたい。
こうした考えは、何も目新しいというほどのものではないし、創作者の中には少なからずこうした考えを持っている人が存在していることだろう。
たとえば岡本太郎も「今日の芸術」の中でこう記している。

創ることと、味わうこと、つまり芸術鑑賞というものは、かならずしも別のことがらではないということです。あなたが、たとえば一枚の絵を見る。なるほど、そこには描かれてあるいろんな形、色がある。それはある一人の作家がかってに創りだしたもので、あなたとはいちおうなんの関係もありません。しかし、あなたがそれを見ているのは、なんらかの関心があってのことです。当然、喜び、あるいは逆に嫌悪、またはもっとほかの感動をもって、それにふれているはずです。
そのとき、はたしてあなたは画面の上にある色や形を、写真機のレンズが対象のイメージをそのまま映すように見ているかどうか、考えてみれば疑問です。あなたはそこにある画布、目に映っている対象を見ていると思いながら、じつはあなたの見たいとのぞんでいるものを、心の中にみつめているのではないでしょうか。
それはあなたのイマジネーションによって、自分が作り上げた画面です。一枚の絵を十人が見たばあい、その十人の心の中に映る絵の姿は、それぞれにまったく異なった十だけのイメージになって浮かんでいるとみてさしつかえありません。人によって感激の度合いがちがうし、評価もちがいます。同じように好きだといっても十人十色、その好き方はまたさまざまです。
こういうことを考えてみても、鑑賞がどのくらい多種多様であり、それがその人の生活の中にはいっていくばあい、どんなに独特な姿を創りあげるか、それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描きあげられたことになります。さらにそれは、心の中でその精神の力によってつねに変貌し創られつつあるのです。
この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。たとえどんな作品でもすばらしいと感じたら、それはすばらしい。逆にどんなすばらしい作品でもつまらない精神にはつまらなくしかうつらないのです。作品自体は少しも変わってはいないのに。
岡本太郎(1954)今日の芸術−時代を創造するものは誰か(光文社)第5章 絵はすべての人の創るもの pp.116-117

このような考え方は、スッと私の心の中に入ってくる。いかなる創造的表現であれ、それが人にインパクトを与えるのは、その物理的な在り様ではない。その物理的な存在が、その表象においてインパクトを与えうるものとなるからこそ、強烈な感情を、感動を与えうるのだと思う。

*1:おそらく上記エントリの筆者の方は、この点について「大間違い」があるかもしれない、と述べているのだろうとは思う

*2:言論としての表現の文脈では、誤解・誤読ということが生じることも事実だが、ここでは様々な媒体を利用した抽象表現に関して。前者の場合は、コミュニケーションの問題であるので。

*3:ここに創作者の意図も含まれる

*4:脳内補完とでもいうものでしょうか