王道が悪いわけじゃない、王道に囚われるのがいけないのだ

非常に面白いエントリを読んだ。

JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話 - 音極道 Music Hacks

日本における王道コード進行のお話なんだけど、非常にわかりやすくて納得のお話。


音極道茶室: YouTubeで見る "J-POP王道コード進行" の歴史
もちろん、このストーリーはこのコード進行がカスだとか、それを使うことを否定しているわけではない。ビデオの中でも

王道進行を使っているから手抜きだとか、パターン化しているとかそういう短絡的な話ではない。
問題なのは”コード進行”に依存しすぎて「新しさ」の追求をおろそかにした作り手側の「姿勢」

王道進行を用いたすばらしい作品というのはたくさんあります。コード進行に罪はありません。

という。
音楽は決してコード進行1つで決まるものではない。メロディ、歌詞によって、アレンジによって、ボーカル、演奏によって、エンジニア、プロデューサーによって、その他さまざまなものによって、さまざまな色を付ける。それら1つが変わっただけでも、その表現は、その印象は大きく異なるものとなる。それぞれの要素がぶつかり合い、融合し、そうして1つの表現となる。
しかし、それらが安易に"n匹目のドジョウ"を狙い始めると、とたんにその表現はツマラナイものとなる。もちろん、耳馴染みの良いものはできるだろう。しかしそれは単に包装紙が変わった程度のことでしかない。
現在の曲も、10年前の曲も、20年前の曲も、そのもっと前の曲も、基本的にはそれほど変わるところはない。もちろん、理論的には大きく変わったところもあるのだろうけれど、それを聞くヒトは変わらない。現在の曲も、50年前の曲も同様にその良さを感じることができる。最近作られたもののほうがいい、なんてことは本来はないのだ。
では、なぜ今なお音楽を作り続けるのだろう?なぜ今作られた音楽を求めるのだろう?
5年前に、10年前にリリースされ、大ヒットした曲、それはいまでも受け入れられるのだろうか?単なる思い出ソングではなく、新しいリスナーのハートを貫くことができるのだろうか?
もちろん、すべてとは言わないが、そのほとんどが時代遅れのダサいものだ、とされるだろう。これまでJ-POPシーンの中で生まれた音楽の中で、来年も、再来年も、5年後も、10年後も音楽ファンからペイされる音楽は、『マストバイ』といわれるアルバムはどれだけあるのだろうか。プロモーションと文脈だけに頼ったものなど、それが失われれば、音楽そのものの価値を評価されることになる。もちろん、耳馴染みはいいだろう。だけど、響かない。
中身はそのままで、見栄えだけ変えればいい、そんな風にして作られ続ける音楽など、過去を探さずとも、今、目に入った物で事足りる。
もちろん、ニューカマーのアーティストたちを見ていると、その多くが大好きなアーティストの影響を強く受けているし、それが消化しきれないままだったりもする。でも、それはそれでいい。そうやって自分だけの表現を見つけていくのだから。セオリーだからでも、そうすればうまくいくという打算からでもなく、単純に好きだから、でも自分なりの表現を見つけきれていないから、だからそうなるだけのこと*1
でも、その国を代表するであろう音楽シーンの最前線が、単にセオリーをなぞるだけだなんて、あまりにつまらない。もちろん、何もアバンギャルドな、エクスペリメンタルなことをしろというわけじゃないし、何から何まで斬新なものを生み出すべきだなんて思っているわけじゃない。演歌体質を抜け出せ、ということだ*2
関連エントリとして、以下のエントリをあげておく。

私は模倣そのものを否定するつもりはない。しかし、模倣という手法に立脚していたとしても、そこに「今日」を生きる創作者達の創造性が、エネルギーが詰め込まれていなければ、「今日」において輝くことはないのだろう。
「過去」を踏襲してもいい、「過去」に反発してもいい、ただ「今日」においてそれが光り輝くためには、そこに創作者の「今日」の創造性が、エネルギーが詰め込まれていなければならない。そして、それが輝くことこそが、「過去」を照らすのだとも思う。

二次創作は模倣に過ぎないのか?:岡本太郎が突きつけた挑戦状 - P2Pとかその辺のお話@はてな

*1:もちろん、そこから抜け出せなければ、それで終わってしまうだけのこと。

*2:これ、日本だけにいえることじゃないんだけどね。実際。