音楽データはローカルになければならないのか

テレビ、ラジオ、CD、音楽配信、オンラインストリーミング…などさまざまな経路であなたは音楽(Recorded Music:録音物)を聞いている。この中で、音楽に対して直接ペイ(Pay:お金を支払う)としたら、おそらくCDか音楽配信であろう*1
しかし、なぜ私たち*2は、これらのものにお金を支払うのだろうか。音楽が聴けるなら、ラジオでもテレビでもMySpaceやPandoraのようなオンラインストリーミングでもいいじゃないか。でも、お金を支払うのだから、それとは違う価値あるエクスペリエンスがそこにあるのだろう。私は、その価値あるエクスペリエンスの1つが、音楽に対するコントローラビリティに由来していると思っている*3
音楽配信は、我々に「我々は音楽の何にお金を支払っているのだろうか」という疑問を提起した。そして、そのコントローラビリティを取り巻く変化の可能性が、この問いに対する更なる疑問を提起するかもしれない。そんなお話。

私たちがペイしないもの

テレビ、ラジオでは、この曲が聴きたい!と思っても、ハイわかりましたとその曲をかけてくれるわけではない。もちろん、視聴者のデマンドが高い曲がかけられてはいるのだろうが、それでも楽曲の選択というコントローラビリティは放送局にある。オンラインストリーミングでは、Pandoraのようなサービスでは、できるだけ自らのデマンドに近いものは聴くことができるが、これを聴きたいと思ったときにその楽曲を流すことは難しい。MySpaceでは、アーティストの側が提供する楽曲を数曲用意し、それをリスナーは選択し聴くことはできるが、そこに用意されたカタログ以外の楽曲を聴くことはできないし、その選曲はアーティスト側にコントローラビリティがある。

私たちがペイするもの

ではCDや音楽配信はというと、膨大なカタログがあり、それらをリスナーが選択し、ペイすることで、それ以降リスナーは好きなときに音楽を聴くことができる。音楽を聴取するというコントローラビリティはリスナーのものとなる。

しかし、おそらくリスナーが求めるコントローラビリティはこれだけではない。1つは上述したような、「好きなときに音楽を聞くことができる」こと。そしてもう1つは「好きなように音楽を聞くことができる」こと。CCCDDRMの問題は主に後者に由来する。リスナーはペイすることでこのコントローラビリティを得ていると感じるが、レコード産業側はそれを許したつもりはない、コントローラビリティは我々にある、という対立なのだろう。

そして、さらにもう1つ重要ことがある。例えリスナーが「好きなときに」「好きなように」音楽を聴くことができたとしても、それだけではリスナーは満足できない。膨大なカタログがあり、それらをリスナーが選択」できること、つまり「好きな音楽を聴くことができる」ことにある。

データをローカルに保存する必要はあるのか

少なくとも「音楽を聴くこと」におけるコントローラビリティは、上記の3つの決定権が担保されていればよいことになる。「好きなときに」「好きなように」「好きな曲を」聴くことができれば。しかし、そうなれば、これまで私たちの習慣、つまりCDであれ、音楽配信であれ、データを手元に置くという行為がそれほど重要ではないことに気づかされる。

たとえばiPodには、それぞれのリスナーがお気に入りの曲が保存されており、いつでも*4聴くことができる。しかしユーザにとっては、iPodというデバイスで(「好きなように」)、ユーザが選択した楽曲を(「好きな曲を」)、いつでも(「好きなときに」)聴くことができる、ということが重要なのであって、そのデータがiPodの中に無ければならないということはない。

もし、iPodが十分な帯域を持って、常時ネットワークに接続することができるデバイスとなったならばどうだろうか。「好きな曲を」「好きなように」「好きなときに」聴くためには、必ずしもローカルにデータが無ければならないということにはならない。ネットワーク上にデータがあればよい。デバイスに求められるのは、好きな曲を選択するためのユーザインターフェースということになる。
データが存在する場所がローカルであれ、ネットワーク上であれ、「好きな曲を」「好きなように」「好きなときに」、もちろんストレス無くヘッドフォンから流すことができるのであれば、リスナーとしては十分なのではないだろうか。

どのようなデバイスからでもアクセス可能な、膨大なカタログを持つオンデマンドストリーミングサービス。そうしたサービスをいつでも、どこでも、快適に利用することができるよう最適化されたデバイス(もちろん、iPodだけではなく、PC、コンポなど音楽を流すことのできるすべてのデバイス)。これらが実現可能となれば、少なくとも上述したコントローラビリティを得るという点では、これまでの音楽の購入/所有と同様のエクスペリエンスを提供することができる。

もちろん、こうした状況が今日明日にでも実現するというわけはないし、実際にそうした未来が約束されているわけでもない。しかし、私にはこうした未来もまた、可能性の1つとしてあり得るのではないかと考えている。

余談

今回のお話は、それほど具体的なお話ではない。例えこうした状況が実現したとしても、それがどのような形で実現するのかが重要なのであって*5、そうした点をほとんど度外視した今回のエントリでは、じゃあ具体的にどうなるの?というところまでは踏み込みにくい。

ただ、こうしたアイディアがあり、その上でどういったサービスが起こりうるのかを考えるのもまた、楽しい*6。おそらく、なんとしてでも防ごうとする人たちもいるだろうし、一部認める形で制限を設けるという人たちもいるだろう。一方で、その網の目をくぐって可能な限り最良のユーザエクスペリエンスを提供しようとする連中も出てくるだろう。

既にLala.comはそれを感じさせるサービスを提供し始めているし(参考:Lalaはデジタル音楽の近未来の新しい姿を先取り?:TechCrunch Japanese)、iPlayerは可能な限り多くのデバイスでのコンテンツ提供に腐心している。このお話は音楽に限ったお話ではないかもしれない。

レコード、映画、ラジオ、テレビ、カセット、ビデオ、CD、DVDなど、いずれのメディアもその登場によって、メディア全体の構造に大幅な変化を強いてきた。インターネットが他のメディアを駆逐するなどというほどに盲信しているわけではないが、少なくともその構造の大幅な変化を要求するものとはなるだろうと思っている。ただ、どういったところで落ち着くのかは全くわからないんだけどね。

*1:そのほとんどが前者であろうが

*2:少なくともこうしたものに直接ペイする人たち

*3:もちろん、これ以外にも多種多様な要因が考えられる。ただ、今回はこのコントローラビリティから考察を進めていきたいと思う。

*4:TPOが許す限りは

*5:つまり、ユーザの求めるコントローラビリティがどれくらい担保されているのか、ユーザにとってどの程度のコストがかかるのか、誰がそれを実現するのかを無視して進められる話ではないし、そもそもデバイス、ネットワーク、ライツマネジメントがどのように進んでいくのかにも左右される。

*6:まぁ、私は古い人間なので、音楽を所有しないという感覚はなかなか受け入れがたい。ただ、こうした新たな時代の新たな形を夢想するのも楽しかったりもするというところで。