「なぜ?」と問うてばかりでは生きてはいけない

霊視や前世占い、占星術といった「スピリチュアル(精神的な、霊的な)世界」がブームだ。それらを扱うテレビ番組は軒並み高視聴率を獲得し、ベストセラーになる出版物も多い。だが、中には疑似科学やオカルト現象を妄信し、だまされて被害にあう人もいる。科学の視点で批判してきた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「『思い込み』と『欲得ずく』が錯誤への落とし穴」と注意を呼びかける。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか? (1/3ページ) - MSN産経ニュース

面白い記事なんだけど、ちょっと物足りない気がする。疑似科学、オカルトに限定せずに、少し考えてみたい。

「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

この辺は納得できる。また、そうした思い込みは、騙されたあとも「それが真実である」ことを確証する証拠を探すことを動機づける。誰だって自分が「間違っていたこと」を認めたくはないものだし、それは他人に対してだけではなく、自分に対してもそうだろう。
もちろん、こうしたことは程度問題であって、誰にでもそういうところはあるし、まさにここで「自分は違う!」なんて言い出したらそれこそ…ねぇ…という話である。

ただ、

「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

この箇所については、多少の議論はあって然るべきだと思われる。実際の講演では多少の補足が入ってるのかもしれないが、すべからく全ての事実を確認し、判断すべし、というわけではないだろう。我々に伝達される情報は膨大な量に及んでいるが、その全てを「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する」だけのリソースをヒトは有してはいない。

たとえば、「携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい」が、たとえそれを理解したとしても、それが真実かどうかはわからない。私は携帯電話の仕組みもDVDの仕組みも、概要としては理解しているが、その細部まではわからないし、たとえわかったとして、私が所有している携帯電話やDVDプレイヤーが実際にそうした機構で作動しているかどうかもわからない。じゃあ、解体して厳密に調べてみるかといえば、そんなことはしない。

結局は、「何」を「どこまで」疑うのかが重要になる。携帯電話だってDVDだって、それを一般的な利用・理解する分には究極的な原理までは必要としないし、それを求められるだけのリソースを持ってはいない。

確かに携帯電話やDVDの原理などという話は極端なものではあるが、私たちの思考はこうしたショートカットからは逃れられないということを理解しないといけない。上記記事の安斉さんのお話であれ、今ここで私がしているお話であれ、それらが「真」であるか、またはより「真」に近いかを判断するのはあなた自身である。簡単に言えば、「なるほどなぁ」とか「バカらしい」とかという判断。

しかし、その判断は何を根拠としているのだろうか?ヒトの心的特性を理解するための緻密な実験計画を立て、数十年にわたって何度も何度も実験を繰り返し、理論を組み立て、より社会的な場面に近づけていき、そうしてある種の行動原理を見いだした末の「なるほど」でも「バカらしい」でもないはずだ。いずれにしても、何かが「真」であるかどうかを解釈するためには、何らかのショートカットが行なわれることは避けがたい。

日常的な思考のショートカット

専門家の意見は正しく聞こえるし、素人の意見は間違いを含んでいる可能性を感じる。ほとんどの人が主張していない意見は間違っていそうだが、みんながそういっていればなるほどと思える。仲のいい友だちは嘘をつきそうもないが、初対面のセールスマンは嘘をついてるように見える。確かにそうした推測は絶対ではないが、確率で考えれば間違っている可能性は相対的に低い。有限のリソースを配分できないのだとしたら、もしくは配分するだけの動機づけを持たないのだとしたら、そうした推測だけで判断することになる。

例としては少し適切ではないかもしれないが、あなたは駅で切符を購入しようとしているとする*1。券売機は2つあって、一方には10名ほどの人が並んでおり、切符を購入しようとしている人は次々とその列に加わっている。しかし、もう一方の券売機には誰も並んではないし、誰も並ぼうともしない。特に故障中という張り紙もない。もしかしたら、空いている券売機は壊れてはいなくて、タッチすれば普通に動作するかもしれないが、実際に確かめてみないとわからない。しかし、そうやって確かめているうちにもう一方の券売機にはさらに4,5人ほど列に加わりそうだ。もし確認して壊れていたら、列に並ぶ時間はより長くなる。

さぁ、空いている券売機を試しにいくか、それともそうせずに列に加わるか。たいていの場合、後者の方がより待ち時間は短縮される*2が、前者が正解である可能性もゼロではない。時間的余裕と好奇心があれば、空いている方を試してみてもよいかもしれないが、たとえばあと6,7分で電車に乗れないと遅刻してしまうという場合には、他の人が並んでいないのには理由があると判断して、早々に列に加わった方が確実かもしれない(5分程度で10人がはけるとして)。

しかし、確認のためにそれほどリソースを必要としないのであれば、とりあえず試してみるだろう。たとえば、道ばたで10人くらいの人が、空のある一点を見つめているのを見かけたとする。おそらくあなたは「その方向に何かあるのだろう」と推測する。それを確認するためにあなたが必要とするとりあえずのコストは、首をひねり、その方向を見上げることだけ。おそらくあなたはそうするだろう。飛行船でも飛んでいれば「なるほどね」と思うかもしれない。しかし、何も見あたらないとしたらどうだろうか。なぜみんなが見上げているのか、を理解するためには、もっと注意深くその辺りを見回すか、見上げている人に聞いてみる必要がある。しかし、そうなると見上げる以上のコストが必要になる。果たして、10人程度の人が空を見上げていたくらいのことの理由を知るために、そこまでのコストを支払えるだろうか?もしくはコストを支払う意義を感じるだろうか?おそらくは少し気になりつつも「まぁ、何かあるのだろう」と結論づけるだろう。

あなたにとって重要なことであれば「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する」必要があるのだろうが、そうではない場合には「他人の目が確かめたことを、自分の頭で判断する」必要がある。有り余るリソースを有しているのであれば、全てのことについて「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する」ことができるかもしれないが、現実にはそのような無限のリソースを有している人はいない。有限なリソースをどうでもよいことに向けていては、本当に重要なことに割り振られるべきリソースを失ってしまう。

ただ、ヒトは既に重要なことに対してはリソースを割き、どうでもいいことにはリソースを割かない、という性質を持ち合わせている。たとえば、自分の人生や生き死にがかかっているようなときに、専門家が言っているから、とか、みんなが言っているから、という理由で物事を判断したりはしない。専門家がYESといっていても、それだけでは信用しない。専門家の意見も、素人の意見も、多数派の意見も、少数派の意見も、全てをひっくるめて考え、突き合わせ、そうして妥当だと思える結論を導き出す*3。もちろん、その主観的な正しさが拮抗している場合には専門性、多数であることが説得力を増すかもしれない。

一方で、どうでもよいことは専門家が言っていれば、へぇそうなのか、で終わる。みんなが言っていれば、なるほどねぇ、と思う。わざわざ反論を探したりはしない。そもそも、正しかろうが誤っていようが、それ自体が重要ではないのだから。

こうしたヒトの持つ機能は、生きていく上で必須のものだと考えている。ただ、ときにそうした機能にはエラーが生じうる。私の考えとしては、リソースを割かずに判断するのはヒトとして仕方のないことだと認めた上で、そうした場合にはできるだけ明確な判断は保留にしておいて、次に関連する情報に接したときにできるだけ柔軟に情報をつきあわせていった方が良い、というところ。要は「簡単にわかった気になるな」ということなのかな。

また、同じ「騙される」にしても、重要だと考え、リソースを十分に割いてなお騙される場合と、重要だとは思わず、リソースを割かなかったことで騙される場合とは区別されるべきだろう。今回のエントリは主に後者に関することで、かつリソースを割かない場合があるのは当たり前だよ、というだけの話。

リソースの投入に関しては、それほど重視されてはいないが、ヒトの自動的な思考/行動傾向がどう騙しに繋がるのか、という点は、ロバート・チャルディーニの「影響力の武器」にて詳述されている。「カチッ、サー」というカセットテープのメタファーを用い、いかにヒトがある種の状況、刺激に対して自動的に反応してしまうのか、それがどういった社会的場面で使用され、ときに悪用されているのかを紹介している。

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「頭で考えていることと心で感じること」は必ずしも同じとは限らず、そして、騙しのテクニックの多くは「心で感じること」を操作する。騙されないためには、「心で感じること」を操作させないためのトレーニングや知識を身につける必要もあるのかなとも思える。

余談

他にも、既存の態度とか知識によっても情報にバイアスがかけられるし*4、そもそも情報の
質や量に偏りがあることもしばしば。超能力やUFOなんてのも、一時期はテレビでもてはやされて、「本当かもしれない」という情報ばかりが垂れ流されてきたしね。今でもスピリチュアルってのがそうだし。さらに、一個人としてはどーでもいいことは「なるほどねぇ」で済むかもしれないけれど、みんながどーでもいいことを「なるほどねぇ」と言ってしまうと、それが説得力を生み出す、もしくは根拠とされることもあるわけで、ともすれば悪用される場合もある。
こうした社会的な問題を考える、解決する上で必要なことが100あったとして、今回のエントリでは、そのうちの1つすら語り尽くせてはいない。伝えられる情報のほとんどは、それを知った程度では全てを理解することは難しい、ということか。

*1:まぁ、スイカでもイコカでもパスモのチャージでもいいんだけど

*2:つまり、空いている券売機は壊れている可能性が高い

*3:ただ、たとえ重要であっても、そのリソースが不足していれば、そうした論理的な思考ができないこともある。たとえば多忙であるとか、そもそもの前提知識を有していないとか。そうした場合には、より自動的な思考の影響を受けやすい。

*4:ヒトは信じたいことを信じる。