「けいおん!」を素直に楽しめないなら…、または「それはアニメでなければならないのか」
「けいおん!」というアニメはまだ見ていないのだが横槍をいれてみる。
大方の予想通り、京アニ補正も手伝って今期アニメで一番話題になっている。 OP曲・ED曲ともにバカ売れのようで、ライトな層にもしっかり金を出させる京アニパワーには驚くばかりだ。
なぜ俺が「けいおん!」を素直に楽しめないかについて: 思考錯誤
この作品、見ていて面白くはあるのだけれど、自分の中ではどう構えて見れば良いのか分かりかねていて、素直に評価できない部分がある。
一番は、物語性の薄さだろう。
「軽音楽部が舞台」というだけで、目標を掲げて活動する訳でもなく、楽器を肴に女の子がキャッキャウフフフしているだけだから。
(中略)
見ていて思ったのが、きれいな(かわいい)「女の子の生態」を見つめるアニメなのではないか、という事。
あくまできれいな・かわいい部分である事が重要で、濃いめの少女マンガや昼ドラのような、ドロドロした人間関係や心理描写は立ち入る隙が無い、というのがポイント。(なお、俺の様な下種な人間はだからこそ「汚す」方向の想像力を働かせる訳だが)
ならば、物語性が濃ゆく、キャッキャウフフフしているだけじゃない、そして萌え系作品でありながらキャラクターが濃い、そして、ドロドロした人間関係や心理描写は立ち入りまくりなバンドを題材とした作品をご紹介したい。
- アーティスト: ザ・ビートルズ
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 2003/03/31
- メディア: DVD
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ビートルズ・アンソロジー。萌え作品じゃない?馬鹿いうな、私はリンゴ萌えだ。
The Beatlesといえば、依然として世界最高峰のバンドに位置づけられていることは疑いないし、私の中でも未だに最高のバンドである。このドキュメンタリーを見れば、いかにして彼らがその地位に登り詰めたのかの一端を知ることができるだろう。少なくとも、HelpやA Hard Days Nightのころの世界を熱狂させたマージ―ビートバンドから、未だに世界をフォローさせ続ける時代をも超越したスタジオバンドへと変貌していく様を見ることができるだろう。
この作品はドキュメンタリーでありながら、そこにドラマがある。もちろん、世界最高峰のバンドを題材にした、10時間にも及ぶドキュメンタリーというだけでも面白いのだろうが、そこにメンバー一人一人の個性、いわば人間くささがあらわになっているところにこの作品の良さが、おもしろさがある。バンドの成長、成功、葛藤、克服、飛躍、衝突、そして別れ。その中で誰一人、清く正しい人間などいなかった。一人一人が、自らの意志を、我を持ち、泥臭くも素晴らしい自分自身の人生を突き進んでいた。メンバー、関係者、様々な人たちの想いがビートルズという船を走らせ、そして最後には沈んだ。しかしその軌跡は、今でも音楽史に強く刻みつけられ、私たちの音楽の中にも色濃く受け継がれている。あれから時代が流れた今だからこそ*1、その事実を一つのストーリーとして紡ぎ、楽しむことができる。それでも若干の痛みを伴いながら。
その表現はアニメでなくてはならないのか
「けいおん!」の話から大きく脱線してしまったが、バンドを題材にしたストーリーは、アニメや漫画だけではない、ということをいっておきたい。もちろん、アニメやその他の表現手法にこだわるからこそオタクなのだ、意義があるのだ、というご意見はごもっとも。ビートルズにこだわる私もまた、その一員であるのかもしれない。ただ、そうした殻に閉じこもりながら作品の善し悪しや物語性を語るのであれば、小さな箱庭の中に起こった小さな揺らぎを記述するにすぎない。創作のダイナミズムを望みながら、そこからダイナミズムが生まれる余地はほとんどないのだ。
上記のエントリにはこのようなコメントが寄せられている。
kkobayashi 苦手だからこそ考察するんです。作品世界と自分自身とのギャップを認識し、その上で作品への入り口を見つけるのです。
Ivan_Ivanobitch 苦手なものを徹底的に分析するのは自己分析につながる。
苦手だからというわけではないが、そういった考えを持っているからこそ、私は小説を、評論を、エッセイを、教養書を、漫画を読むし、映画を、ドラマを、アニメを見るし、音楽を聞くし、絵画、彫刻、写真を見るし、建築物や庭園を見に行くし、ゲームをするし、ライブや舞台に出かける。表現手法は様々だけれど、いずれもそこにストーリーがあって、それを楽しんでいる。更にいえば、時間を見つけて散歩に出かけるのもそう。たとえ、そこにあるものが創作を意図して創られたものでなかったとしても、それを見る私はそこにストーリーを見出す。それを楽しむ心があれば、なんだって創作になる。それは創作が「作り手」だけが創り出すものではなく、「受け手」もまたそれに刺激を受けて新たに創り出すものだと考えているから。受け手にとって作り手の創る創作は、ある種のトリガーにすぎず、受け手はそれを受けて心の中に新たな何かを創り出すのだと思っている。
もしかしたら、そんな雑食なのは薄っぺらになるだけだ、といわれるかもしれない。私としてはいろんなものを食べ散らかしているというよりは、創作を食べているつもりでいるし、薄っぺらになるどころか、ますます濃厚な感覚を得ているとすら思っている。逆に、1つの物にこだわるにしても、それだけを見ている方が薄っぺらだなとすら思える。
もちろん、表現手法の選好はあるだろう。私は音楽が好きだし、アニメを好きな人もいる。しかし、それだけを見ているのでは、自分の感覚にダイナミズムは生まれない。ある種の表現の上っ張りには詳しくなっても、唯一絶対の自分の感覚は磨かれない。評価はできても、感動できない*2。
こだわりは大切だ。しかし、そのこだわりに囚われてしまえば、あなたの世界は途端に狭く、窮屈なものとなる。
それでも、エンターテイメントなんだから気軽でいいじゃん、という意見には同意したい。ただ、そこからクリエイション(創作)の文脈に簡単に置き換えてしまうのには、強烈な違和感がある。創作という行為は日常的な、気軽な、当たり前のものであるべしと思っているが、創作と娯楽とを安易に同一視することには反対したい。娯楽の気軽さと、創作の気軽さとは全く異なるのだから*3。