Tumblr考:「私の物は皆の物」と「あなたの物は皆の物」

"Sharing is Caring"という言葉が好きで、自分のtumblrの名前にもしているくらい、情報やコンテンツの共有については非常に好ましい、望ましいと思っている。とはいえ、共有を望まないコンテンツまでそうすべきだとは思わない。

「自分の物は皆の物」って考えの人はtumblrには賛成だけど
「自分の物は自分の物」って考えの人はtumblrは嫌いだってわけ
どちらの考え方が正しいとか正しくないとかは無くて
「自分の物は皆の物」って考えの人と
「自分の物は自分の物」って考えの人との価値観の違いがtumblrの問題になってる気がします

http://anond.hatelabo.jp/20080211125755

「私の物は皆の物」という考えは好きだし、そうした意味ではCreative Commonsライセンスの下で自分の作品を公開している人を応援したいとも思っている。

ただ、「web上のもの」全てが、自由に利用できるという意味で「皆のもの」とか「共有財産」だとまでは思えない。もちろん、Web上にあるほとんどの物がリンクを張れば皆が利用できる、という点では共有財産だとは思ってはいるし、ほとんどの人はリンクを張られることに対して嫌悪感を抱くことはないだろう。

「私の物は皆の物」という人の作品を利用するのは大賛成ではあるけれど、「あなたの物は皆の物」と言って相手の意図に関係なく作品を勝手に利用していれば、摩擦を生み出すのは当然だよね*1

ここでの摩擦を心情的な側面に限って言えば、「あなたの物は皆の物なのだから、私が利用したっていいだろう?」を押しつけられることに不快感を持つのではないのかなと。それと、「あなたの物は皆の物」と考えて自分の作品を勝手に使っている人たちが、「自分の物は皆の物」という理想にどれだけ貢献しているのか、というところもあるだろう。要は、都合のいいことばっか言ってるけど、お前は貢献なんてしていないじゃないか、という印象を持っているのではないかと*2

おそらく、そうした感情は、作り手として何ら貢献していないじゃないか、ということなのだろうけれど、貢献は作り手としてのみ達成されるものではない。

共有財産のwebの中から"これはいいね"を皆で探して質の高い情報を皆で共有する

私自身、これも1つの貢献だと考えている。特にオンライン環境においては、ますます重要になる貢献であるだろう。ただ、元増田の人と決定的に異なるのは、共有財産が何であるか、という点。ウェブ上で、全ての人に開かれている作品は広義では共有財産と言えるかもしれないけれど、それは好き勝手に使ってよいということではない。とはいえ、「自分の物は自分の物」という考えであれば、そもそもウェブで公開したりはしないだろう。そう考えれば、所有感覚云々の話ではなく、共有のされ方もしくは見せ方*3の価値感の違いであると言える。

実際にはリンクでもよいのに転載という形をとることと、自らの作品は自らの望む場所*4で受け取って欲しいということは、それほど違いはないように思える。いずれにしても自分の望む『見せ方』を主張しているという点では。

ただ、「リンクでもよいのに転載という形をとること」に全く意味がないわけではない。何故なら、リンクだけでは伝わらないことの方が多いから*5。もちろん、リンク先に飛んでくれれば、十分に伝わるのかもしれないけれど、そのリンク先を見た人が、必ずしもそこに飛んでくれるわけではない。

たとえば、とても素敵な音楽があって、それを皆に紹介したいと思っても、単に「この音楽いいよ!」というだけでは、その良さは伝わりにくい。もちろん、その音楽の良さをうまく言語化して伝えることができればよいのだろうけれど、残念ながら皆が皆その能力を持っているわけではない。そうした場合、実際に聞いてもらうことこそ、その音楽の良さを知ってもらうための最良の方法であると考えるかもしれない*6。また、文章を転載するにしても、その要点となる箇所を抜き出すことで、単純にリンクする以上に、その文章の鮮やかさを切り取ることもできる。ある意味では、タイトルを補完することもできるわけだ。

ただ、こうした考えに合致する「共有財産」の概念は、少なくとも見せ方をコントロールしたい*7という人の作品にまで、摩擦なく適用することはできないだろう。。

ウェブが互助の心で出来ているなら…

webとか増田とかtumblrってのはそういいう互助の心で出来てるんだよね

そうした互助の心で出来ているのであれば、転載するにしてもそれを望む人たちの作品をこそ、そうして欲しいなぁ。たとえば、Creative Commonsライセンスや、Kopimi、その他再利用を明示的に許可するライセンス/表示のあるものや、外部に投稿可能な形態で提供されているもの(たとえばエンベッド可で公式に公開されているビデオ*8、オーディオ*9など)を選択すべきであって、一方的に互助だ助け合いだというのは、もはや『互助』ではない。確信犯的にやっているんだ、というなら、特に言うべき言葉を持たないけれど(むしろ、その思想を聞いてみたく/共有して欲しくなる)、もし、自分の考えを他の人にも認めて欲しい、納得して欲しいんだというなら、多分無理じゃないかなと思うんだけどね。

互いに助け合うことを理想とするのであれば、ユーザ同士の互助だけを考えるんじゃなく、クリエイターも含めた互助の関係でなきゃいけないんじゃないのかな。

そうしたサイクルを作り上げることこそ、作品を提供する/提供してもらう、作品を広める/広めてもらう、作品を教える/教えてもらうっていう、それぞれの互助の関係が作り出せされるんじゃないかなと思う。

メリット・デメリットに対する考え方は人それぞれなので、そうした視点からの考えを是として一般論とするのは限界がある。「どちらの考え方が正しいとか正しくないとかは無
」いのは、客観的に捉えればそうとしか言いようがないのであって、主観的に捉えた場合、人それぞれの「正しさ」は存在する。それを越えるためには、たとえそうだとしても私にはこういう信念がある、という確信犯でなければならないんじゃないかな。

終わりに…

私自身はこのダイアリーをkopimiでライセンス*10しているように、基本的には勝手に使ってくれ、いやむしろ使ってくださいというスタンスをとっている。どのような利用でも絶対に許す、というスタンスをとっているのに、いちいち許諾を申請する/されるのも、双方にとって無駄なことでしかない*11。更にいえば、広義のコピーしてくれ!という考えの下にこのライセンスを採用しているので、改変も自由であるし、更にいえば出典の明記も求めるつもりはない。必要に応じて判断してくれれば良いだけのこと。

私は、自分の「考えを伝えたい」からこそこうして文章を書いている。「自分の考えを伝えたい」という気持ちはあまりない。自己顕示欲がないわけじゃないのだが、「考えを伝えること」の方がプライオリティは高い。だから、そのための障害を少しでも減らすことで、伝播する可能性を最大化したい。

コピーされるだけの価値はあるのか、という疑問もあるが、少なくとも私は伝えるだけの価値があることを書いているつもりだ。じゃなきゃ書かない。価値判断は人ぞれぞれなので全く価値がないと判断されることも残念ながら受け入れなければならないが、価値があると判断してくれる人がゼロじゃないと信じる以上、自分の考えを伝えたいという欲求には逆らえない。

そういう考えの人が書いたエントリだ、ということを考えると、上記のエントリはポジショントーク的でもあるんだよなぁ。

ちなみに、このエントリの骨子は昨年の2月に書かれたもので、公開しないのも勿体ないなぁと思い、加筆して公開することにした。あと、このネタ「何度目だナウシカ」状態にも関わらず公開するのは、それがオンライン環境では当たり前のことだと思っているから。解決していない問題なら何度でも蒸し返す、その議論を通過したと思っている人には無価値のことでも、未経験の人には価値あることだと思うので*12

*1:こういう考えを完全に否定するものではないけど。いわゆる海賊行為の問題同様に程度問題という部分もあるかなとは思う。

*2:もちろん、作り手としてこうした考えに賛同し、貢献する人も少なくないだろう。

*3:または魅せ方

*4:ウェブサイトなりブログなりMySpaceなり

*5:そう考えれば、「リンクでもよい」というわけじゃないのだろうけど。

*6:少なくとも、私は聞くことが音楽の良さを知る最良の方法であると考えている。全ては「聞くこと」から始まる。

*7:もしくはそのコントローラビリティについては保留しておきたい

*8:YouTubeとか

*9:imeemとか

*10:kopimiはライセンスというより思想の表明のようなモノだが

*11:もちろん、それ以外のことも伝えるためであれば、全く無駄ではないのだが。

*12:さらにいえば、時間が経つということは自分も環境も変化したことを意味するので、変化の後に再考することにも価値があると思う。