マスメディアの信頼性の欠如を補うのは『受け手』
■ 学生がウィキペディアに嘘の書き込み、多数の欧米大手紙がだまされて引用 - Technobahn
■ Wikipediaの偽情報、大手新聞が記事に掲載 - ITmedia News
■ tnfuk [today's news from uk+]: ウィキペディアの「要出典」と、一流新聞のオビチュアリと、ダブリンの大学生。
今回のケースのように、嘘が広まってしまったのは問題なんだけど、報道ってのは結局、送り手と受け手があって成り立つものだから、報道のことを考えるなら受け手のことも考えないといけないなぁと思う。
ニュースメディアの信頼性というのは、ある意味ではそのメディアにとっての生命線のようなもので、それが失われてしまったら受け手にとってはニュースメディアとしての機能が失われる、もしくは大幅に削がれてしまう。
とはいえ、ニュースメディアを完全に信頼できるものじゃないというのは既に我々は知っている。そもそも、商業的な活動を行っているのだから、そのリソースは有限であり、すべからく確実な情報ソースにあたるべし、というのは不可能だ*1。リソースはプライオリティに従って配分されるし、報道という行為にも商業性がつきまとう。そうしたニュースメディアの限界を前提に、その情報を利用するというのもメディアリテラシーの1つだろう。マスゴミと揶揄し、信じられぬと耳を塞ぐだけではただの阿呆だ。
こうした限界は、現在、報道の一翼を担ってきた新聞社が大きな転換期を迎えていることを考えれば、ますます広がっていく可能性もある。高い信頼性を求める、といっても、それを実現するためのリソースが失われれば実現のしようがない。
ある意味では、そうしたリソースの不足した情報であるという前提で、情報を摂取しなければならくなるのかもしれない。そうなれば受け手のメディアリテラシーに大きく依存することになるだろう。ある記事だけを読んで納得する、ということは許されない。報道の送り手が信頼性を失った分、自らがリソースを費やし、確かな情報であることを裏付けなければならない。さもなくば、話半分で聞くしかない。その場合、自分の信じたいことを信じるというバイアスを排除する能力も必要とされる。
情報の信頼性という点から言えば、速報や事実関係が明らかになっていない記事に飛びつくこともまた、大きな危険をはらんでいることも理解しなければならない。また、その場合、ニュースの旬などというものにも惑わされてもいけない。ゴシップとニュースを同列に見るのであれば報道に信頼性は必要ないが、それと区別して見るのであれば、伝わる多少の時間がかかることは前提としなければならない。情報の裏をとるにも時間がかかるのは当然のことだ。早く知ることと、正しく知ること、どちらにプライオリティを置くかというトレードオフでもある。速報だけでお腹いっぱいになってしまって、肝心のより裏付けのなされている情報が伝えられることに飽きているのでは、信頼性を求める意味はない。
信頼性にお金を払えるか
現在ではテレビのおかげで報道はほぼタダで行われているような感覚があるが、これからもそうであるとは限らないだろう。もちろん、どうなるかなどわかりようもないのだが、これまでの報道を支えてきたモデルが崩れさったとしたらどうだろうか。信頼性の高さがこれまで以上に価値を持つ時代になるのかもしれない。
信頼性の高さが経済的な価値を生み出すとき、そこに私はペイするのだろうか?それとも、失われた信頼性を埋めあわせるために、労を惜しまず補足する情報を得ようとするのだろうか*2?それとも、話半分で聞くのだろうか?
おそらく、私にとって重要なニュースであり、自らが確認できないような情報に対してはペイせざるを得ないのだろうな、と思う。では、重要ではないニュースはどうだろうか?おそらくペイすることはないだろう。話半分で聞くのか、重要でもないのに更なる情報を得ようとするのか、それとも、自分が信じたいように信じてしまうのかはわからないけれど。