流行とは何か?:創造と模倣と
私は流行とかトレンドというものに対して、批判的に見ているところがある。たとえば、コンテンツビジネスにおいて何かを売り出そうとするとき、意図的に流行やらトレンドを作り出そうという試みがなされることがあるのだが、そうしたものに対しては非常に批判的に見ている。その一方で、音楽シーンという言葉で表される流行、トレンドについては、それほど抵抗がなかったりもする。とはいえ、その背景にビジネスが関わっていることを理解していてもなお、音楽シーンに対してはそれほど抵抗がないのだから不思議なものだ。それはなぜなのか、ということをしばらく疑問に思ってきた。
流行を生み出すダイナミクス
流行という現象をどのように捉えるのかは実に難しい。個人的には、流行に関する評論の中で最もしっくり来るのが、岡本太郎の議論。
流行というのは、文字通り流れていく、つまり動的なものであるからこそ、それを積極的につかむことのできない者には、ひじょうに不安な感じがし、わるい意味にしか解釈できないのです。しかし、考えてごらんなさい。流行でない何がありますか。どんなに今日正統と考えられているものでも、ながい流行の歴史のなかの一コマにすぎないのです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.66-67
どんなものでも、歴史のある一地点においては、流行の一部として存在する、と。芸術の権威性を傘にきて「あれは所詮流行だから」と鼻で笑ったとしても、その傘にきている芸術もまた、ロングスパンの流行にすぎず、その価値はその時代における相対的なものに過ぎない。権威によって優劣をつけること自体バカらしい、ということか。
では、芸術が動的なものであるとしたら、どのようなダイナミクスが働いているのだろうか。
流行には、つくりだすという面と、まねをするという面との、二つの面があるのです。それに、みんながひきつけられ、型としてまねしはじめるから、いわゆる”流行”という現象がおこるのです。この流行の「創造」と「模倣」の二つの要素が、時代をすすめているのです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.68
「創造」が先行し、Likeにドライブされた「模倣」によって追随すること、それが「流行」という現象が生み出す。流行という現象を真に理解するためには、この2つの要素が両輪となっている、という前提を置くことが必要になるのではないか。
では、創造と模倣とを分かつもの、それは何なのだろうか。
芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム(近代主義)です。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.90-91
創造は前進を是とし、模倣は安心を是とする、と言い換えることもできるだろう。さらに、岡本太郎は「創造」こそが芸術に求められているものだ、と主張する。
ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまたあたらしい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。
芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花を散らすのです。
一言で言えば、モダニスト(近代主義者)が時代に合わせて、その時の感覚(センス)をなぞらえていくのにたいして、ほんとうの芸術家はつねに批判的です。正しい時代精神が現存する惰性的なありかたに反抗し、それをのり越えていくという、反時代的な形で、自分の仕事を押し出していくのです。だれもそうしなかった時期に、あたらしいものを創造していくからこそ、アヴァンギャルドなのです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.91
流行が求めるデマンドを絡みとりつつ、そのまま流行を突き抜け、新たな地平を切り開くこと、それが芸術に求められることであり、さらに、それが流行を動かしていくことにもなる。カウンター・カルチャーと呼ばれるものも、こうした役割を担っているのだろう。
しかし、そのカウンター・カルチャーも、その役割が固定される段になると、途端に輝きが消え失せ、つまらないものに変貌する。
芸術におけるほんとうの意味の新しさということは、へんな言い方ですが、新しいということになる以前にこそあるのです。すこし極端にいえば、新しいといわれたら、それもうすでに新しいのではないと考えたってさしつかえないでしょう。ほんとうの新しいものは、そういうふうに新しいものとさえ思われないものであり、たやすく許されないような表現のなかにこそ、本当の新鮮さがあるのです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.91
カウンター・カルチャーに求められている「時代とぎりぎりに対決」する姿勢は、それが時代に組み込まれてしまうことで自己矛盾を抱えてしまうことになる。それを打破するためには、新たなブレイクスルーが必要になるのだが、それがなされなければただの閉鎖的な文化の1つになり下がり、いずれ飽きられるのを待つばかりとなる。
岡本太郎は、創造とは「苦悩によってだけつかみとるなにものか」であり、悲劇的な先駆的役割を担うものだとする一方で、模倣は創造を応用して作られた、「惰性的な気分でも受けいれられるようになったもの」であり、「だれにでも安心されるあたらしさ」、「流行に即したスマートさ」を持つモダニズムであるとしている。そして、モダニズムは心地よさや楽しさを提供してくれるものではあっても、猛烈な意志の力を呼び起こすものではなく、それだけで時代を創造していくものではない、としている。その理由としては、モダニズムに課せられた条件が制限を加えるものとなるためだろう。
デザインは芸術か、芸術でないかなどと、よくきかれますが、厳密な意味でいうなら、芸術とはちがった要素をもっています。いい、わるいはぬきにして、デザインは、できるだけ多くの人に好かれ、理解されなければいけません。たとえばポスター、どんなにりっぱでも理解をこえたポスターは、商業デザインの意味をなさないし、腰かけられない椅子、おちおち住んでいられない家などは、たとえ芸術的価値があっても商品にはなりません。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.94-95
とくに近代的デザインというのは量産の関係から、できるだけ多くの人に好かれなければならないという条件があります。
岡本自身は、こうしたモダニズムを否定してはいない。彼の考える芸術は、常にその受け手に緊張を強いるものであり、そうしたものに常に囲まれていては、日常生活を営めるものではない。「適当に安心してよりかかれる憩いの場」を形作るためにモダニズムがあっても良い。
ただ、模倣によって広がりを見せるモダニズムには、その時代における重要な価値、意義も存在する。
真の芸術家が創造したものを模倣し、型として受けいれ、通俗化してその時代の雰囲気をつくっていくという、流行としてのモダニズムがあります。その力によってもやはり、時代というものが動かされていくのです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.94
通俗的なあらたしさがその時代に広まることを促す役割を担っている、ということだろうか。それによって、その時代の雰囲気というか、風向きが形作られる。そして、新たな創造はそれを越えるものとして、登場し、その時代を塗り替える。流行の歴史はその繰り返しなのだろう。
創造と模倣の繰り返しが流行を生み出す
これまで見てきたように、流行とは、創造が時代に風穴を開け、その創造を通俗化した模倣が津波のように過去を覆い尽くしていく、しかし、創造はその津波にのまれることなく、新たな時代のさらに先を行く、という連続したプロセスのことだと考えられる。創造が時代を無視するではなく、時代に飲み込まれるのでもなく、時代と対峙しつつ、それを揺さぶるものである限りは、それを模倣し広め、流行を生み出すことが新たな創造を生み出す基盤となる。
冒頭の問に戻れば、私が音楽シーンを肯定し、ビジネスの手法としてだけの流行やトレンドを否定してしまうのは、前者には創造が時代を突き動かしてきた歴史があり、後者には流行の消費の歴史しかないからだと思える。ある音楽シーンに対するカウンターとしての音楽シーン、さらにそれに対するカウンター、そういった歴史があるからこそ、私はそれを肯定したい。しかし、ビジネスの手法としての流行やトレンドは、これまでの流行の歴史を下敷きに儲けをあげることを第一にしているように思える。
日本にも、世界にも創造の最先端を行くアーティストが多数存在している。それは単純にエクスペリメンタルな音楽に限らない。我々にあたらしさを与えてくれるアーティストすべてがそうだと私は思う。しかし、音楽産業はそういった創造を続けるアーティストにどれだけスポットライトを当ててこれただろうか。模倣を抜けだし、創造を望んだアーティストを後押ししてこれただろうか。私には過去の動向を分析した売れ線ばかりを追い求めてきたようにも思える。
もちろん、岡本の言うモダニズムであるためには、多くの人に好かれなければならない。しかし、流行を生み出すためには、新たらしさを解釈し、それを広めることも必要になる。過去の焼き増しばかりではいずれ古いだけのものになってしまう。
モダニズムは時代が過ぎ、流行の型がかわればすぐ古くなってしまいます。その時代だけの価値、つまり千九百何十年かのモダーンな風景の中で、銀座に行ってお茶を飲んだという感じの喜びをあたえてくれるような、そういうたぐいの絵は、これは時代がかわれば、それとともに魅力を失ってしまうのです。時代的意味は持っているけれども、それをのり越えての価値はない、創造ではないからです。
真の芸術は、時代が過ぎても古ぼけません。つきない新鮮な感動の泉だからです。本当に創造された芸術というものは、その時代の新鮮な表情のほかに、またそれをのり越えた永遠の命があるのです。(中略)つまり、相対的(時代的)な価値と、時代をのり越えた絶対的な価値の二つが、おたがいをきりはなすことのできない、創造の不可欠な本質になっているものです。
岡本太郎 著: 今日の芸術―時代を創造するものは誰か p.95-96
流行に乗って利益を上げようとするのであれば、ただプロモーションによって耳障りの良いものを押しつけるばかりでは十分ではない。新たな創造をフォローし、模倣し、流行を形成した後に、その流行が「飽き」によって終焉を迎えるより早く、また新たに生まれてきた創造をフォローする、そういったたゆまぬ前進こそが、流行の歴史を作り出す。それが私が「音楽シーン」という言葉に感じている意義なのかなと思う。
模倣を再解釈してもっと耳なじみの良いものにしても、そこに新しさが存在しなければ縮小していくのは避けられない。流行の兆しが見られるのを待っているだけでは流行は形成されない。伝説と言われる過去のアーティストたちは、誰しもがその時代における価値と、時代を越えた価値とを有している。ここ10年の間、そういったアーティストたちをどれだけ残せただろうか。