「いっぱんじん」が無力なら、その状況を作っているのも「いっぱんじん」だよね

確かに、インターネットはいろいろな可能性を広げたけれど。
でもそれは、どこまで行っても可能性であって、うまくいくことを保証するものではない*1。成功するためには、それに見合うだけの才能か、運か、ある種の戦略か、ともすればそのすべてが必要なわけで、そのどれをも持ち合わせていない人がうまくいくということはないのかもしれない。

誰もが同等の条件で同じ場所に参加出来ると聞いていたtwitterも、サイトも持っていない、リアルの活動も無い、いっぱんじんには無力だ。

webホームレスという人種

うん、「参加するまで」は確かにみんな同じ条件だと思うよ。でも、見てくれるかどうかまでは、同じ条件にはできないよね。
では、誰が「いっぱんじん」を増田氏の言う「無力」にしているのか、というと他ならぬ「いっぱんじん」。じゃあそれが悪いのか、っていうとそんなことはあり得なくて、そもそもリーチできないのだから、注目されるわけもない。上記の増田氏も増田に書いたからこそ、多くの人の目に晒され、それによって注目を集めることができたわけだ。もちろん、自身のブログを設置して、そこに書いてもよいのだろうけれど、増田だからこそ注目を集めることができた、という場合も多いだろう。つまりは、手の届くところになければ、見るかどうかという選択肢にすらならないのである。

注目を得る「可能性」を手に入れたということ

以前にこんなエントリを書いた。

注目を得るというのは、本当に大変だと思う。しかも、ポジティブな注目を得るというのは本当に難しい。それはなにもインターネットだけの話に限らず、それ以前から、そこかしこで意識的にであれ、無意識的にであれ、誰しもが感じてきたことだろう。
広告なんてのもその最たるもので、注目を集め、そこからさらに望ましい方向に行動させる、つまり商品を購入させるためのものだろう*2。さらに、商品を購入させるためには、リーチできるところにその商品なりサービスを置く必要がある。それを担ってきたのは流通である。
インターネットの時代以前には、この流通の限界が多くの人にとっての最大のハードルであった。たとえ、自らの考えを多くの人に伝えたいと思っても、地理的/時間的な限界を超えることは難しく、それを超えるためにはフィジカルな媒体に頼らざるを得なかった。この文章を1万人の人に伝えよう、そう思ったら、まず1万人の人に接触できる場所に出て演説でもうつか、1万枚のビラでも刷って配りにいくかしかない。もしくは、1万人の人に電話を掛けまくるとか、ね。ただ、それには相当なコストを要する。
しかし、インターネットの時代になって、こうした流通のハードルがだいぶ低くなったことは、この文章を読んでいる皆さんにはおわかりだろう。少なくとも、こうしてネットに掲示することで、以前の流通の限界を超えて、1万人どころか数億人に見てもらう「可能性」を得ることができた。これはとてつもないことだ。たとえ、その相手がインターネットに接続している人だけに限られるとしても、以前とは比べ物にならないくらいに多くの人にリーチすることが「できる」ようになった。ただ、これはあくまでも「流通」のハードルを多くの人から取り去ってくれた、というだけにすぎない。

2つのハードル:接触可能性とプライオリティと

依然として、多くの人の眼前には「注目を得ること」へのハードルが存在している。それは熾烈な競争だ。そうした競争においては、既存の知名度は大きな武器になるだろう。上記の増田氏はそこに一抹の違和感を覚えているのかもしれない。しかし、そうした状況を作り出しているのも、他ならぬ自分自身でもある。

噂どおり、twitterには名の知れたはてなーがたくさんいた。好きな同人作家とかもいたし、ニュースサイトの管理人もいた。興奮は留まる事を知らず、とにかくフォローだフォローだ!と息を荒げたわけだよ。独り言だぞ。著名な人の独り言が聞けて、あまつさえなんか良く分からないけど、その輪みたいなものに、サイトも何も持ってない俺が入れるんだ!!!!

webホームレスという人種

そう、結局のところ、彼は違和感を感じつつも、その違和感を生み出す源泉となる行為をしてしまっている。意識的にか、無意識的にかはわからないけれど、実際にそうしている。「大小なり「個」が無い」人の独り言を「無価値」だと失望する彼ですら、そうなのだ。
ただ、実際には結果としてそうなってしまうのは致し方のないところでもある。世界中の発言全てに注目することは、現実には不可能なのだから。少なくとも、人は自らの処理できる範囲で、必要だと思えるものにのみアクセスすることになる。それも、リーチできる範囲のものに。
つまり、最初のハードルとして、アクセスしてもらうためのパスが存在するのか、ということがある。極端なことをいえば、URLを直接入力する以外にアクセスするパスがなく、そのURLを知っているのは自分だけ、という場合にはまず見てもらえる可能性はないだろう*3。ただ、そんなことは全然なくて、それ以外のパスがどこかに存在しているし、そうしたパスを積極的に作り出すこともできないわけではない。さらに、そうしたパスを辿ってきてくれた人が、新たにパスを作り出してくれることもある。ともすれば、それは連鎖する。少なくとも、インターネットにはそうしたダイナミクスの可能性があるし、私はそこにインターネットというメディアの利点、そして魅力が存在していると思う。
ただ、そうしてパスを得たとしても、辿り着いた人すべてが、その後も継続してアクセスしてくれるわけではない。第二のハードルとしてプライオリティの問題がある。上述したように、人のリソースには限界があるために、その範囲内で処理できる分だけを受容することになる。そこから漏れてしまえば、積極的にアクセスしてくれる、ということは期待できないだろう。既存の知名度などはそうしたプライオリティの判断に際して非常に有用なものであろう。もちろん、その判断が妥当なものかどうかは保証されるものではないが*4

Who Are You?

さて、ここまではtwitterということをほとんど意識せずに書いてきたんだけど、ここで話を戻してみよう。私のtwitter観というのは、「独り言で繋がるゆるゆるコミュニケーション」という感じ。たとえ「ゆるゆる」であったとしても「コミュニケーション」なわけで、フェイストゥーフェイスとは異なる形であっても、それなりの手順というものがあるだろう*5
少なくとも、相手にとって自分が「誰であるのか」が認識されなければ、コミュニケーションのとりようがない。少なくとも、ゼロでは無理だし*6、先方にとってコミュニケーションをとりたい相手であるという水準はクリアしなければならない。確かに、既にサイト/ブログを持っている、よく知られた活動をしていることで、より多くの注目を集められるかもしれないが、それは単に「Who I am」を説明する必要が、そうではない人よりも少ない、ということのようにも思える*7。だから、ホームがあるかないか、ということは重要ではなくて、相手にとって「Who You Are」が説明されていて、かつ、その人とコミュニケーションをとりたいと思えるからこそ、発言にアクセスしてもらえるし、リアクションをもらえるんじゃないかな。なら、ホームがなければ、そこで「Who I am」を見せて、その上で誰かにコミュニケーションをとりに行く必要があるんじゃないかしら。
少なくとも、たった1行の独り言でもそれは「個」なんだよね。ただ、それを見てもらうためには、さまざまな、クリアしなければならないハードルが存在するんだと思うよ*8

それでも違和感を感じる?

ならば、自らが「サイトも持っていない、リアルの活動も無い、いっぱんじん」をフォローして、リプライするところから始めてみてはいかがかしら。まず隗より始めよってね。

余談

うーん、一般人が無力だっていっても、インターネットなんて一般人だらけのような気もするけど。サイトを持ってたり、ブログを書いてたりする人は除く、なんて変な制限入れたら、twitterやってる人は一般人じゃない、とも言えるわけで。変に制限加えて一般化すること自体おかしいよなぁと思う。

*1:「うまくいくこと」が何を指すかは人それぞれだろうけど。

*2:広告が「直接的」に「商品」を「購入」させるためのものだけではないのは重々承知。

*3:引出しに鍵をかけてしまってある日記よりは可能性はあるかもしれないが

*4:その判断も精緻に行おうと思えばリソースが必要なわけで、そうしたリソースの節約ができる判断方法でもある

*5:許容されやすいかどうか、という点で。

*6:たとえ、相手が匿名だとしても、その匿名氏の発言こそが、「誰であるのか」を説明してくれる。

*7:少なくともtwitter上ではね。

*8:そのハードルを押し下げるための方法が、さまざまなWebサービスで見られているけれども。SBMもそのためのツールとも考えられるし。