表現行為の純粋性を支えるのは嫌儲じゃないよ

人に自分の作品を見て欲しいというのが動機なのであれば、現在は既にインターネットという手段がある。本の形態で販売するよりも確実に多数の人にアクセスする機会があるだろう。そして、反響を得る機会も同様に多い。仮に本を出すのであっても、無料でネットに公開すればいいのではないだろうか。自分のことを棚に上げて同人誌作者が嫌う転売屋(同人誌書店とどう違うのだろう?)のような行為の抑制にもなるし、ちょうど良い。人の著作権に寄生する立場で、自分の作品にアクセスしたいと思う人にお金を出すことを強要することはやはり醜悪な行為であろう。

クリエイティブ・コモンズに非商用というライセンスがあるのも、このような考え方が世界的に存在することを表している。決して、日本だけの足の引っ張り合いの文化でも嫉妬でもない。間違いなく嫌儲は表現行為の純粋性を支える正義である。

「振り込めない詐欺」/嫌儲という正義

なんでこの流れでCreative Commonsの非営利制限が出てくるのかがわからないのだけれど。

同人とかその辺の話だと比較的コンシュマー寄りの活動なんだから、CCつけてるアーティストならほとんどが喜んでOK出すと思うけどね。だって、コンシュマーの活動によって自分の存在を広めてくれることを良しとするからこそ、CCつけてるんだから。結局、どの程度営利を目的としていると見られるかどうかで判断されると思うよ。もちろん、その利用目的/内容によってはOKを出すことはできない、っていうかもしれないけど。おそらくそれは金銭的な問題ではないだろう。

CCに非営利制限があってそれが採用されているのも、金銭的なペイを受けるのが妥当なシチュエーションでペイを受けるため、とか、望まない利用を防ぐためというところが大きいかと。後者はどちらかと言えば、金が絡めばろくなことがない、という感じかなと。

前者はたとえば、営利を目的とした映画に使われるとか、CDに収録されるとか、放送にのるとか、そういったときにお金をもらうための制限となる。非営利制限をかけていないと使われても「お金ちょーだい」とは言えないからね。

以前、Creative Commonsを採用するJosh Woodwardというアーティストが、自身のライセンスから非営利制限を取り払ったことを紹介したけれど、彼はそれまでその制限を設けていた理由をこう話していた。

これは僕が活動を始めたときから、格闘してきたものなんだと思う。僕のCDを手に入れて、焼いて、売る、そんな権利を誰かに譲ることを良しとしてこなかった。

商用可能なCCライセンスで楽曲を提供する理由:「名もなき存在でいること、それが本当の敵だ」 - P2Pとかその辺のお話@はてな

個人的な印象なのだけれど、これはそうした利用に関してはプロフェッショナルとして話をしよう、ということだと受け取っている。その辺は、彼がCC by-sa(表示-継承)で自らの楽曲をライセンスし、以下のように述べているところにも表れている。

もし、僕の音楽を僕と同じCreative Commonsライセンスでのリリース(映画やコマーシャルなど)を受け入れられない/できないという場合には、これまで通り僕に連絡してほしい。一緒になんとかしよう。

彼が非営利制限を取り払ったのは、自らが名もなき存在でいることを是とすることはできなかったためだった。そこで彼は、営利目的でも無料で利用することを許すことで、自らの存在を最大限広げる可能性にかけたんだろう。しかし、誰かが営利を目的としてそれを利用しようとすれば、その規模が大きければ大きいほど彼と同様のライセンスを継承することが難しくなってくる*1。その場合には、契約を結ぼう、ということになるのだろう。いずれにしても、彼は自らの存在を広めることができ、ともすれば利益を上げることもできる。たとえ、非営利制限をかけていなくてもね。

ライセンスにnc(非営利)をつけていようといまいと、自らの作品がプロフェッショナルなシチュエーションで利用されるというのであれば、金銭的な対価を支払ってくれ、というのはそれほどおかしい話ではない。「美しき嫌儲思想」を守るためなんかじゃないよ、自分たちが利益を上げるためだよ。

嫌儲は美しい。
なぜなら、対価を一切受け取らずに表現をするという行為は、自らの表現行為の純粋性を証明するもっとも有効な手段だからだ。

「振り込めない詐欺」/嫌儲という正義

表現行為の純粋性を求めるのは良いよ。だけど、その表現を伝えることをどうやって私たちがサポートしていくのか、その純粋性を私たちがどう評価するのかを考えた方がいい。ここのところの一連のエントリにも通ずるところがあるけれど、それを省みずして創作者にばかり理想を要求するのは単なるわがままだよ。

たまたま浮かび上がった表現ばかりに群がって、刹那的に蝶よ花よと愛でて、飽きたら次へ、なんて状況じゃダメだよね。純粋な表現を求めるなら、それを受け入れる環境を、サイクルを作り出さなきゃ。

フォーカスはどこに?

そもそも「嫌儲」って言葉を使ってる時点で、純粋な表現行為にフォーカスがあたってないじゃんって思うけどね。それをこそ求めてるんじゃないの?「儲」と相対化させるために、自分が良いと思う姿勢はコレだなんて持ち出したりとか、なんだそりゃって感じ。「間違いなく嫌儲は表現行為の純粋性を支える正義である。」って言ったって、儲けを考えていないから純粋だって言ってるんだから、「支える」とかいうことじゃないでしょ。儲けを考えるか考えないかで分けてるんだから、それは「正義」じゃなくてその人の「定義」でしかない。

でね、理想を持ってるなら、ぐだぐだ言ってないでできることくらいしろ。嫌いなもんばっか気にしてDISってる暇があったら、好きなものを応援しろよ。たまたま目にしたものが気にくわねぇってだけじゃ単なる愚痴。純粋な表現行為を実行してる人はたくさんいるだろ。観測範囲にそんな奴いねぇってんなら、探し出せ。そんでその人のこと、その人の作品をできる限り広めてやれ。表現行為の純粋性を支えたいなら、受け手としての自分にもできることはあるだろ。

*1:たとえば、ハリウッドの映画をCC by-saでリリースできると思う?