「親の無責任さ」を過度に一般化してはいないだろうか

理想を言えば際限がないし、現実はテレビの中の作られた世界じゃない。

無菌で育てれば子供は健康に育つという考えも間違いだが、家庭の中が無菌であって世界をフィルタリングすれば子供が無菌で育つという考えの方がもっと間違っている。

決してフィルタリングできない子供の中の最強の異物 - アンカテ(Uncategorizable Blog)

極端な、そしておかしな親は確かにいる。そりゃ確かにいるけど、子を心配する親がみんな子供を無菌状態で育てようと考えているわけじゃない*1

問題とすべきは、親がなんでここまで子供を信頼できなくなっているのか、ということだ。つまり、いかにマスメディアが偏向報道をしようが、不気味で無意味なサイトに何百万も利用者が集ると考え、自分の子供がその一員となることを恐れるとしたら、それは単に自分の子供が信頼できないということである。

もし、「自分の子供を完全に信頼している、うちの子には何があってもへっちゃら、矢でも鉄砲でも持ってきて」なんて親がいたら、それこそ私は批判したい。親が子を信頼できないのは、当たり前の話だ。子供は不完全な存在だからこそ、親は死に物狂いで守る。この発言は「信頼できないことは相手を疑っている悪いことなんだ」と倫理的なところに揺さぶりを懸けているようで、あまり気持ちのよいものじゃない。
信頼するって何だろう。「まかり間違えば、自分の愛する子供が何かしらのトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない」そう心配することが子供を信頼していないということなんだろうか。
子供なら誰だって親に嘘をつくし、都合の悪いことはごまかすし、反抗期ともなれば親を嫌うし、楯突くし、自分は束縛されていると感じるだろう。もちろん、そういったことをさして信頼する、しないといっているわけではないというのは理解している。ただ、少なくとも親は自分の子供だからといって完全に思うがままになるわけでもないし、コントロールできるわけでもない。子供のこういうところが不安だ、心配だ、頼りないなぁ、そう思う親は当たり前の親の姿だろう。そして反抗期を迎えて以降は、それまでとは違い次第に子供は親から離れていく。まだまだ心もとないわが子が次第に自分の知らない世界を持ち始める。それは親として不安に思って当然だろう。
どんな子供だって、非行に走る可能性は秘めていると私は考えている。ほとんどの場合はその「環境」にいなかったために、回避できている。しかし、本当に運悪くそういった「環境」にいることで、道を踏み外してしまうことだってあるだろう。もちろん、親がそういった環境から遠ざけてくれることが多いことは認めるところではある。ただ、親も万能ではない。完璧な親も、完璧な子育ても現実には不可能だし、不幸にもその子供の不完全な部分につけこむような「環境」が存在しうるのかもしれない。自分の子供が道を踏み外さず、まっすぐに成長してきたと言えるのは、結局は結果論でしかないと思っている。「自慢の娘、息子」だという親がいたとしても、「完璧な娘、息子」だといえる親などいないだろう。いつだって親にとって子供は不完全な存在であり、だからこそ気に懸けるし心配もする。
社会に適応的な子供を育て上げることは、ヒトが抱える永遠のテーマでもある。そして現在は、これまでの環境から急速な変化の過渡期にいる時代でもある。そんな中、その時代のデマンドに応じて、完璧な子育てをせよ、と親に責任を押し付けてしまうこともまた、無責任だと思う*2

いつの時代にも親にとって子供は不気味なものなのだが、現代の親は、携帯サイトのせいにすることで、それを自分の責任として引き受けなくてもすむようになっているということだと私は思う。

私は「責任逃れ」のために携帯電話のせいにしているとは思っていない。もちろん、そういう親もいるにはいるかもしれない。しかし、今ケータイが危ない、というのを真に受けている親たちの大半は、責任を逃れるためではなく、「親の責任」としてそれを問題視しているのだと思う。
不勉強、不理解、もちろんそういう側面もあるだろう。一部報道によって過剰に危惧している場合だって多いだろう。当然、子供を守るためであれば親も努力すべきだし、実際親はそうしているだろう。しかし、その努力の全てを親ができるかといえば、実際には不可能だ。親は自らの限界の中で、そのプライオリティに従って自らの責任を果たそうとする。

まだ、途中までしか出てないが、携帯利用の「日常の姿」として、ポジティブなソーシャルサイトの事例がいくつかあって、大変興味深い記事だ。 この部分が携帯サイトの報道からスッポリ抜け落ちていて、一面的な姿しか伝えられていない、という著者の主張には私も賛成である。

私が反発したかったのは、このことがわかっていて、なぜ、「普通の親」の姿を想像してくれなかったのか、ということ。筆者のいう「現代の親」が何を指しているかはわからない。ただ、ほとんどの親は安易に子供に対する責任を放棄してはいないし、周りから見て至極真っ当に、そして苦悩しながら子育てをしているんじゃないだろうか。でも、その親が心配しているというのが今の現状なんだと思う。決して自分の子供が理解できないのが携帯のせいだなど責任逃れをしている人ばかりではない。
以前、母に尋ねたことがある。子供を育てきる自信はいつごろついたのか、と。母は、未だにそんな自信なんて持っていないよと答えた。してあげたかったこと、しなきゃいけなかったこと、しなきゃよかったこと、未だに悔やんでも悔やみきれないことがあると私に真剣に謝ってきた。私にしてみれば、母が謝るようなことじゃない、そう思うのだが、母は自分がふがいないばかりに、と私に詫びた。しかし私は、母が女であることを、妻であることを捨て、母親として必死に子供たちを守り育ててきたことを知っている。もちろん、それでも母は「母親」として完璧な存在ではなかったろう。しかし、誰がそれを責められようか。
親として根本的な考え方が間違っている人もいるだろう。虐待や放任、過保護など目に余る、無責任な人たちだっている。ただ、それでもそういった人はほんの一握りであり、ほとんどの親は私たちと共感しあえるようなそんな人たちだろう。
親が子供を理解していないという批判がある。だが、他人は、社会は親の有り様をどう理解しているというのだろうか。マスメディアが面白おかしく書き立てるものをみているだけではないだろうか、どこかで見かけた頭のおかしい親の姿だけを思い浮かべてはいないだろうか。それが「現代の親」の本当の姿なんだろうか。

終わりに

世界の毒から子供を守るものは家族で、家族の毒から子供を守るものは世界だ。子供が健やかに育つためにはどちらも必要だと思う。

essaさんの指摘したいこと、言わんとしていることはよくわかる。そして、今最も必要とされていることは、本当はフィルタリングなんかじゃないということも理解できる。ただ、それゆえにその理由付けとして、「現代の親」の無責任さ、携帯電話への、インターネットへの責任転嫁を持ち出してきたことに違和感を覚える。
もちろん、私はその「現代の親」でもなんでもなく、事実誤認があるのかもしれない。私が思っている以上に、「普通の親」などほとんど存在せず、特別な存在であるまともな親と、大半のどうしようもない親にわかれているのかもしれない。ただ、少なくとも私が出会う親である人たちは、子育てに関しては決して「完璧」でも「どうしようもない」わけでもなく、いたって「普通」の悩める親なのだが・・・。

*1:そして家庭の中が無菌だとも思ってはいないだろう

*2:この箇所は筆者の主張への反論ではなくてね