オノヨーコ:『Imagine』の引用による映画差し止め請求、フェアユースを理由に棄却

Expelled: No Intelligence Allowed』という映画の中に、John Lennonの楽曲「imagine」を引用するくだりがある。それに対して、オノ・ヨーコやJohnの息子たち*1は、無断使用だとして、訴えを起こしていた

訴状によると、オノらは同映画における楽曲イマジンの使用と、同楽曲に対する批判を違法と訴え、同映画の配信、販売、プロモーションの禁止と損害賠償金を求めている。

IP NEXT ニュース / オノヨーコ、映画製作者を著作権侵害で提訴

そして、昨日、この裁判に対する判決が下った。この件について、Ars Technicaの記事を元に概観してみることにする。

なぜ「Imagine」が引用されたのか

この映画自体は、昨今の疑似科学論争と重なる部分もあるのだけれど、進化論 vs. 創造論の論争を、創造論の観点からとらえた映画。実際に見たわけじゃないけど、プロパガンダ的な感じらしい。いかに創造論が迫害されているのか、というのを誇張したりとか(映画の中身については、こちらが詳しく、参考になる)。
この映画の中で、進化論支持者であり、創造論批判者のPZ Mayersの発言を扱っていて、彼は、科学リテラシーが宗教を侵食している、そうした宗教の緩やかな消失は望ましいことだと感じている、と発言している。これに対し、映画のホストである創造論者のBen Steinは、この考えがMayersのオリジナルではなく、既にJohn Lennonによってもそうした考えが示されている、とナレーションを加え、「Imagine」のクリップが使用される。"Nothing to kill or die for/And no religion too."のくだり。
場面はその曲を伴ったまま、軍事パレード、そして手を振るスターリンを映しだす。次に場面はゲストのコメントを紹介し、彼は「超越的な価値」と「ヒトが他者と1つになることができること」には関連がある、と述べる。宗教は、我々とスターリンの独裁とを隔てる唯一のものである、と。
こうした考え自体が正しいかどうか、などということは今回の議論とは全く関係はないし、そうした議論をするつもりもない。ここで、重要なのはこうした「引用」が認められるべきかどうか、という点。

フェアユース

Steinは、この映画の中で「Imagine」を利用したのは、John Lennonの反宗教的なメッセージを持ち出すためだったとしている。また、映画そのものもそうしたメッセージを主に対象とし、それについての解説をおこなっていることからも、完全な言い訳というわけでもないだろう。
米国著作権法においては、こうした「解説と批評」目的での著作権の引用を保護しており、裁判官は今回のケースはその範囲内であると判断し、オノ・ヨーコらの訴えを棄却した。その際、2006年のGreatful Deadの裁判から、たとえ営利目的であっても、広範なpuclic interestを利する価値を有しているのであれば、2次的な使用においてもフェアであると判断できる、という点を引用している(詳細はArsの記事を参照のこと)。被告側、つまり映画製作サイドは、まさにこうした点を主張してきており、本作がpuclic concernの問題を解説するものであり、そのために「Imagine」が利用されたのだ、という。まさにフェアユースの問題そのものである。
そういった事情もあって、被告側はスタンフォードのFair Use Projectの支援を受けている。同団体のAnthony Falzoneは、ブログにて「批評のために引用する権利、自らの表明する見解を議論する権利は、まさにフェアユースドクトリンの中心にある」とし、オノ・ヨーコらの行動が言論の自由を脅かすものだと主張した。

この裁判がもたらしたもの

Arsの記事の最後に、なかなか興味深いことが書かれている。

したがって、Lennonの相続人たちが彼の歌詞に対する批評を押しつぶすために著作権法を利用しようとしたことは、残念なことだ。Steinと製作会社の議論がいかに不正直なものであっても、彼らにはそれを作る権利があり、著作権憲法修正第1条に従わなければならない。オノの積極的な戦術は、結果としてSteinと同社に不相応なPR的勝利をもたらしたであろう。これによって、彼らは支配的な「ダーウィニスト」たちと戦う、袋叩きにあっている弱者を演じることができるのだから。Expelledへの有効なカウンターは論理と証拠であり、それについては十分に見出されている著作権法のあまりにご熱心な適用は、逆効果でしかない。

今回の件が、人々に対して説得的であったかどうかはわからないが、それでも少なからず彼らの望む構図をより多くの人々の間に示すことはできたかもしれない。むしろ、彼らの議論を支持する人々に対するアピールとして最適だったというべきか。
もしこれが、愛と平和、自由と解放を叫ぶ映画だったら、どうだったんだろうね。

*1:SeanもJullianも